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中日鬼文化 吉元昭治氏は著書の中で、 道教は現在では、民間信仰のなかで息づいている。そして一方、道教医学もまた、 民間療法のなかに生きているといえよう。道教への真の理解がなければ、中国医学の真の理解もないことを強調したい。 いみじくも魯迅は、「人はしばしば、坊主を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎むが、道士は憎まない。 この理屈がわかれば中国のことは大半わかる」とのべている。中国医学の歴史はどの部分で輪切りにしても、 そこに道家の思想とか、道教の色あいが、あるいは濃く、あるいは淡く、にじんでいるのである。……吉元...

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吉元昭治氏は著書の中で、 道教は現在では、民間信仰のなかで息づいている。そして一方、道教医学もまた、 民間療法のなかに生きているといえよう。道教への真の理解がなければ、中国医学の真の理解もないことを強調したい。 いみじくも魯迅は、「人はしばしば、坊主を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎むが、道士は憎まない。 この理屈がわかれば中国のことは大半わかる」とのべている。中国医学の歴史はどの部分で輪切りにしても、 そこに道家の思想とか、道教の色あいが、あるいは濃く、あるいは淡く、にじんでいるのである。……吉元昭治 分担執筆『道教』全三巻平川出版社 2巻p303 鬼道の出典箇所の検索 【鬼】キ?おに、 ○陰の霊。(陽の霊を神とするに対して)。 ○死人のたましひ。亡霊、幽魂。 ○神として祭る亡霊。かみ。天神?地祇に対するもの。「李義山雑纂意想」入神廟若見鬼。 ○悪い陰気。ばけもの、もののけ。「詩経小雅何人斯」為鬼為或(よく、いさごむし)。 ○人に害を与へる悪神。悪魔。「悪神。貧神」。 ○想像上の怪物。形人の如く、二角三指を有し、口裂け牙長く、虎皮の褌を着けている。殊に仏説で地獄に居て亡者を取りあつかふ者。「世説雅量」阮徳如嘗於厠見鬼、長丈餘、色黒而眼大。 国訓 ○おに将軍。○おに夫婦。○おに酸漿。[詳解漢和大字典、服部宇之吉、小柳司気太著] コメント:字典によると、鬼は二つに分けられる。 ○先祖の霊、死者の霊。 ○他方は妖怪、怨霊、化け物の類い。 宗教的信仰的意味での用法と呪術的邪教的意味での用法に分けられる。 【鬼道】あやしい術。魔法。「後漢書劉焉伝」張魯母有姿色、兼挟鬼道、往来焉家。[詳解漢和大字典、服部宇之吉、小柳司気太著] 【鬼神】おにがみ、かみ、神明。(鬼は陰、神は陽)。「中庸」鬼神之為徳其盛乎。○(邦)恐ろしいあらがみ。又強暴な者。鬼物。[詳解漢和大字典、服部宇之吉、小柳司気太著] 『説文解字』略して〈説文〉ともいう。120年ごろ成った書。漢字のなりたちを六書(六つの法則)に求めた文字学の原典。 【鬼】鬼の形で、人鬼をいう。〈説文〉に「人の帰するところを鬼と為す。人に従ひ、鬼頭に象る。鬼は陰気賊害す。厶に従ふ」とし、厶を陰気を示すものとするが、古い字形はただ鬼頭の人の形に作る。……中略……人鬼に対して、自然神を神という。神は電光の象を神格化したものである。合わせて鬼神という。……『字統』白川静著…… 【道】……前略……人の行為するところを道といい、道徳?道理の意となり、その術を道術?道法といい、存在の根源にあるところの唯一者を道という。道は古代の除道の儀礼の意より、次第に昇華して、ついに最も深遠な世界をいう語となった。術も道路の呪詛を意味する字であるが、同じような思惟課程を通じて、その 方法 快递客服问题件处理详细方法山木方法pdf计算方法pdf华与华方法下载八字理论方法下载 のいとなり、道家では合わせて道術という。……『字統』白川静著…… 【事】……前略……事はもと祭事、のち政事の万般をいう。 〈牧 (ぼくき)〉に「政事」、 〈 鼎(こつてい)〉 に「 卜の事」、 〈毛公鼎〉に朕が褻事(わがせつじ)」のように用い、〈説文〉のいう職事にあたる。西周の冊命形式金文に職事を任命し、 末文に「用て事へよ」という語をそえることが多い。有事?大事という語は、〈左伝〉ではなお祭事を意味する。〈大学〉「物に本末あり、 事に終始あり」のような一般的な用義法は、 最ものちのものである。……『字統』白川静著…… 【神】……前略……〈説文〉に「天神なり」とし、 「万物を引き出すものなり」と、神?引の畳韻をもって訓する。〈礼記、礼運〉「鬼神に列す」の〈鄭注〉神なるものは、物を引きて出さしむ、 祖廟山川五祀の属を謂ふ」とあり、同じように音義的解釈を加えているが、漢代の語源学に共通するものである。神は天神、すなわち自然神であり、 祖霊を含むことはなく、人の霊には鬼という。しかしのち、祖霊が升って上帝の左右にあると考えられるようになって、 〈宗周鐘〉「皇上帝百神」うちには、祖霊をも含むものとみられ、〈大克鼎〉「申(神)に 孝す」には神に対して 孝巣という祖霊にたいする語を用いている。神事のみでなく、精神のはたらきやそのすぐれたものを神爽?神悟のようにいい、人智をこえるものを神秘という。神の観念の展開は、古代宗教思想の中心的な課題をなしている。……『字統』白川静著…… 【鬼神】 超自然的?神秘的な霊力を有し、生者に禍福をもたらす霊的存在、中国では、人間は精神を司る(魂)と、肉体を司る(魄)との二つの神霊を持ち、死後、魂は天上に昇って(神)となり、魄は地上にとどまって(鬼)となると考えられた、その顕現の仕方によって、善神と悪神との両様に分かれ、祭祀と祈禳の対象にとなる。 仏教では、鬼は六趣(六道)の一、神は八部衆の総称であり、夜叉などがその代表とされる。なお、日本では(おにがみ)とも訓読し、広く(もの)威力ある精霊を神格化した称呼とするほか、荒々しく猛々しい神の意にも用いる。「災いも来ることを得ず。鬼神も窺ふべからず、盗賊も犯すべからず」(本朝文粋12)「義睿迫よりみれば、様々の異類の形なる鬼神どもきたる」(今昔13ー1)=「鬼神も罪許しつべく、あざやかに物清げに、若う盛りに匂ひを散らし給へり」(源氏夕霧)【仏教辞典】 中国歴史書のなかで、鬼、鬼神叉は鬼道がどんな意味合いに用いられているか検索に務めた。 1)『史記』孝武帝本紀、第十二、[中国古典文学大系10平凡社] 孝武皇帝は即位すると、とくに敬意をもって鬼神をまつった。(p165冒頭) 「八通の鬼道」(p166) ▲亳(陜西省)の謬忌(びょうき)という人物が、泰一(天神の名)をまつる方術を奏上した。 「天神で貴いのは泰一であります。 泰一を補佐するものが、五帝(五天帝。蒼帝?赤帝?白帝?黒帝?黄帝)であります。いにしえは、天子は春秋に泰一を都の東南郊外でまつり、 太牢(牛?羊?豕の牲)を七日間にわたって供え、壇をつくって八方に鬼神の道を開いたものです」 そこで天子は太祝(祭祀を掌って福祥を祈念する官)に命じて太一の祠を長安の東南郊に設立させ、常に謬忌の方術のごとくに奉祠した。…p166… 『史記』孝武帝本紀、第十二「八通の鬼道」(p171~172) ▲その秋に、上は雍に行幸して、郊祀をおこなおうとした。すると、ある人がいった。「五帝は泰一の補佐です。ですから、泰一をお立てになって、 陛下みずから郊祀なさるべきです」上(しょう)は疑わしく思って、どう決定してよいか躊躇していた。ときに、斉人の公孫卿が、「今年、陛下は宝鼎を入手なさいましたが、 この冬の辛巳の日は朔旦冬至(朔日でたまたま冬至)にあたっておりまして、黄帝が鼎をえたときと同じであります。 鬼臾区に問うと、区は、『帝には宝鼎と神策(めとぎ)を得られました。この歳の己酉の日は朔旦冬至で、天の紀が終わってまたはじまる時にあたっております』とこたえた。 そこで、黄帝は日数をかぞえてみると、その後、おおむね二十年で朔旦冬至それを二十回くり返して三百八十年たつと、 黄帝は仙人に化して天に登った”とあります」(p171.上15行目 と、所忠(武帝の寵臣)を通じて奏上しようとしたが、所忠はその書が常軌を逸しているのを視て、 でたらめな偽作書ではないかと疑い、「宝鼎の件は、すでに決定しました。この上、なにをしましょうか」と、ことわった。そこで、公孫卿は、 上のお気に入りの人を通じて奏上した。上は大いに悦んで、公孫卿を召して問うと、 「この書は申公からいただきましたが、申公はすでに死にました」 という答えであった。 上はいった。 「申公とはいかなる人物か」 公孫卿はいった。 「申公は斉の人であります。安期生と交友関係があって、黄帝の言葉をさずかったのです。著作はありません。ただ、 この鼎の書を書きのこしただけです。(p171) ▲それには『漢の興隆のときは、ふたたび黄帝のときにあたるだろう。漢の聖者は、高祖の孫かまたは曾孫だろう。そのとき、宝鼎があらわれて、 神と通じて封禅するだろう。これまで封禅をおこなったものは七十二王あったが、そのうち、黄帝だけが泰山にのぼって封禅することができたのである』とあります。 また申公は、『漢の君主もまた、泰山にのぼって封禅すべきである。そうすれば、仙人に化して天にのぼることができるだろう』と申しました。黄帝のときには、 一万からの諸侯がありましたが、仙道を説き山川の神霊をまつって封ぜられたものが七千もありました。 ▲天下の名山は八つあります。そのうち三つは蛮夷の地にあり、五つは中国にあります。中国にあるのは、華山?首山?太室?泰山?東莱で、この五山は、黄帝が常に遊行して神と会った所であります。 黄帝は一方においては戦い、また一方においては神仙の道を学んだのでありまして、万民が神仙の道をそしるのを憂慮して、鬼神をそしるものを断斬に処しました。 そして、百余年たって、しかるのちに神と通ずることができました。黄帝は雍において上帝を郊祀し、三月のあいだ宿泊しました。鬼臾区は大鴻と号し、死んで雍に葬られました。 もとの”鴻冢”がこれであります。その後、黄帝はおびただしい神霊と明廷において接見しました。明廷とは甘泉のことであります。黄帝が仙人に化したという寒門は、 谷口(甘泉にほど遠からぬ地)であります。黄帝は首山の銅を採掘して、鼎を荊山の麓で鋳造しましたが、鼎ができあがりますと、竜が胡髯をたれて天くだって黄帝を迎えました。 黄帝は竜にまたがり、群臣や後宮のもので、従って竜に乗ったものが七十余人でした。竜は天へとのぼって去り、残余の臣下たちは乗ることができず、竜の髯にとりつきました。 竜の髯は抜けて黄帝の弓を落としました。群衆仰いで望み見るうちに、黄帝は天にのぼってしまいました。群衆は、その弓と竜の胡髯とを抱いて泣き叫びました。 それ故に、後世、そこを名づけて、鼎湖といい、その弓を烏号と申すのであります」 そこで、天子は、 「ああ、わしがほんとうに黄帝のようになれるなら、妻子と別れることなど、わらぐつを脱ぎすてるぐらいにしか思わぬ」 といって、公孫卿を郎官にとりたて、東のかた太室山において神をさぐらせた。 上は、ついに雍で郊祀をおこない、隴西にいたり、西のかた空桐山にのぼり、甘泉宮に行幸し、祠官の寛舒らに命じて泰一の壇をそなえさせたが、その祠壇はあの謬忌の泰一の壇にならって、 三重のものであった。五帝の壇は、泰一の壇をめぐって一壇さがってしつらえられ、おのおの方角どおりにすえられた。 すなわち、黄帝の壇は西南にあって、八通の鬼道を除(はら)っていた。 泰一への供物は、雍の一畤の供物と同様にし、それに醴?棗?脯(あまざけ?なつめ?ほしにく)の類を加え、一頭のからうし(旄牛、…)を殺して、俎豆(祭祀の犠牲を盛る器)に盛って供えた。 五帝には、俎豆と醴だけを供えた。その下の四方の地には祭酒をそそぎ、群神の従者の神および北斗の神にも供えものしてまつったという。……p171~172、史記、上 平凡社…… 『史記』孝武帝本紀、第十二、[中国古典文学大系10平凡社](p179末尾) 今上が封禅をおこなってからのちの十二年間に、今上は五嶽?四涜をあまねくめぐりあるいた。方士たちで神人をうかがったり、まつったりして、海上にでて蓬莱をもとめたものは、ついに効験がなかった。公孫卿のやからが神をうかがったことも、大人の足跡をみたということで一応の弁解にはしたが、効験はなかった。天子は次第に方士たちの奇怪で真実味のない話がいとわしくなったが、それでも方士たちとの連絡を絶たずに真の神にあいたいと。それ故に、こののち、方士で神をまつることを口にするものがいよいよ衆(おお)くなった。しかし、その効験がどのようであるかは明らかである。(p179終わり) 太史公曰く、ーー わたしは、天子が巡幸して天地?諸神?名山川をまつり、封禅をおこなうのにしたがい。寿宮にはいって神をまつる話の坐に侍り、方士や祠官の言葉をよく考察した。そして、退いて、順序をたてて古来の鬼神をあつかう態様について論じ、つぶさにその表裏の状態を表現した。後世において君子が出現すれば、祭祀や封禅の実態をくみ取ってもらえるであろう。俎豆や珪幣などの供物についての詳細、酒の献酬の礼式などについては、それぞれ専門の有司がいる。 『史記』孝武帝本紀、第十二、原文 ◇古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道於是天子令太祝立其祠長安東南郊常奉祠如忌方其後人有上書言古者天子三年一用太牢具祠神三一天一地一泰一天子許之 ◇コメント: 「黄帝の壇は西南にあって、八方の鬼道(八通之鬼道)を除っていた」とあるのは、黄帝、すなわち、鬼の最長老である、老子が祭壇の西南にある表鬼門にあって、全国から、孝武帝に招かれて、集まってくる先祖を迎え、その中にまぎれて、潜入する邪霊(悪鬼)を除くため、ということである。 ◇コメント:司馬遷の『史記』に書かれている鬼、鬼神、鬼道が 『詳解漢和大字典』のいずれの解釈が適当かお考えいただきたい。 すなわち、この場合 漢の孝武帝が祈ったのは、「天神?地祇」と「先祖である、鬼(キ)として祭る亡霊」を意味するのか。それとも、呪術的宗教儀式としての、妖怪、怨霊、化け物の類い。 とか、邪神のニュアンスの強い言葉として解釈すべきか、 司馬遷がいずれの意味で用いたかが問題である。 司馬遷の時代は西暦前145年前後のことで、卑弥乎の時代はまだである。政治を日本では「まつりごと」といい、先祖の霊に御伺いをたてるか、 すべての自然現象は神に祈るかするより手立てのない時代であることも考慮しなければならない。 [陳寿著?『三国志』] ◎「魏書」[烏丸?鮮卑?東夷伝] 「東夷伝の内容」→[夫余(293)高句麗(297)東沃沮(299)邑婁(300)穢(301)韓(302)馬韓弁韓辰韓、倭(306)] [陳寿著?『三国志』?]今鷹真?小南一郎?井波律子著、世界古典文学全集24B コメント:上記のように、「魏書」倭人伝は『三国志』「魏書」の末尾の小記録にすぎない。東夷伝の国々の鬼の記述を検索してみた。鬼道の倭国を除いて、総て鬼神を祭っている。 ▲【韓】(302) 韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接して、その広さは縦横四千里ばかりである。三つの種族があって、一つは馬韓、二つめは辰韓、三つ目は弁韓である。 辰韓というのは、古の辰国である。 ▲【馬韓】 は三韓のうちの西部に位置する。その民は定住していて、穀物を植え、蚕桑の技術を知っていて、綿や布を作る。それぞれに長帥(酋長)がおり、大きいものは自らを臣智と呼び、 それに次ぐものは邑借とよばれる。海山の間にちらばって住まいし、城郭はない。 爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟琢国、臣濆沽国、伯済国、速盧不斯国、日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、素謂乾国、古爰国、莫盧国、 卑離国、占離卑国、臣さん国、支侵国、狗盧国、卑弥国、監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、児林国、四盧国、内卑離国、感奚国、万盧国、辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不弥国、 支半国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、臣蘇塗国、莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如来卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不雲国、不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国、 全部で五十余国がある。 大きな国は一万余家、小さな国は数千家で、全部あわせると十余万戸になる。辰王は月支国にその宮廷を置いている。臣智の位のものには、優呼臣雲遣支報安邪叔支濆臣離児不例拘邪秦支廉 (?)という称号が加えられることもある。魏率善、邑君、帰義候、中郎将、都尉、伯長といった官が置かれている。302……中略……p304 毎年五月に種まきがおわると、鬼神を祭り、人々が群衆して歌舞し、昼夜ぶっ通して酒を飲む。そのときに舞われる舞いは、数十人が立って、 一つながりになって地を踏み、手足を下げたり高く上げたりして音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似たところがある。十月に農作業が終わったあとにも、 同様の行事がある。鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りをつかさどらせ、 その者を天君と呼ぶ。またそれぞれの国にはおのおのもう一つの邑があって、蘇塗という名でよばれる。そこには大きな木が立てられ、それに鈴と鼓をぶら下げて、鬼神の祭祀を行う。逃亡者たちもその場所に逃げ込むと、つれ戻されることがないため、(そこをかくれ家として)盛んに悪事をはたらく。 蘇塗を立てることの意味は仏教の浮屠(仏塔)と似たところがあるが、そこで行われることは、一方は善事、一方は悪事と全然異なっている。 彼らのうちでも北部の(楽浪?帯方)郡に近い国々の者たちは、いささか礼儀やならわしをわきまえているが、郡から遠く離れた所に住む者たちは、まったく囚徒や奴婢が集まっているような状態である。 特別の珍宝は産出しない。禽獣や草木もほぼ中国と同じである。大きな栗の実を産し、梨ほどの大きさがある。また細尾鶏(長尾鶏)を産し、その尾の長さはみな五尺以上もある。 男たちには時に入れ墨をする者がある。?また州胡と呼ばれる民が、馬韓の西方の海中の大きな島に住む。その人は身の丈がやや小さく、 言葉は韓とは異なる。みな頭髪を剃っているのは鮮卑に似ているが、ただ(鮮卑と違って)韋の衣服を着、牛や猪を盛んに飼う。その着物は上着だけで下はなく、ほとんど裸とかわらない。船で往来し、 韓の土地にやってきて交易を行う。 コメント:馬韓は五十余国から成り立っているとすると、今様に推察すれば一国は、小部落か村落というところであろうか。この場合の、鬼神は漢和大字典にある、「おにがみ」「恐ろしいあらがみ」と解釈するか、それとも、祖先の霊と天神地祇とするか。全文を読んで判断しなければならない。著者、陳寿の考え方が問題となる。 ▲【辰韓】 は、馬韓の東方に位置し、その地の古老たちが代々言い伝えるところでは、自分たちは古の逃亡者の子孫で、秦の労役をのがれて韓の国へやってきたとき、 馬韓がその東部の土地を割いて与えてくれたのだ、という。……中略……彼らの言葉は馬韓とは異なり、国のことを邦といい、弓のことを弧といい、賊のことを寇といい、 行酒(さかずきをまわして順々に酒を飲む)のことを行觴といい、互いに自分たちのことを徒とよびあうなど、秦の人の言葉と似た点があって、 燕や斉の地の物の呼び方と共通点があるというだけに留まらない。楽浪郡の人のことを阿残と呼ぶ。東方の人々は自分のことを阿と呼ぶが、 楽浪の人はもともと自分たちの残余だから「阿残」とよぶのだという。現在でも彼らのことを秦韓と呼ぶものがいる。もともと六国であったが、だんだん分かれて十二国となった。 ▲【弁辰】 も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地があって、それぞれに渠帥(指導者)がいる。勢力の大きいものは臣智と呼ばれ、それより一等下って険側、それより下って樊穢、 それより下って殺奚、さらにその下に邑借と呼ばれる者がいる。 已柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁辰楽奴国、軍弥国、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、 戸路国、州鮮国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国、弁辰涜盧国、斯盧国、優由国などの国がある。 弁韓と辰韓とで合わせて二十四国、大きな国は四、五千家からなり、小さな国は六七百家からなって、あわせて四、五万戸となる。そのうちの十二国は辰王に属している。 辰王の王位は、かつて馬韓の者が即くことになって以来、代々ずっとそのままで来た。辰王の位は(馬韓ににぎられていて、辰韓のものが)自ら王位に即くことはできない。 【『魏略』にいう。明らかに彼らが流亡の民であればこそ、馬韓の支配下にあるのである】 △土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人々は蚕桑の業に通じて、兼布(糸へんに兼、併せた糸)を織る。牛也馬に乗ったり車を引かせたりする。婚姻の礼には、 男女であっきりとした区別がある。大きな鳥の羽根を死者に随葬するが、死者に天高く飛んで行かせようと意図してそうするのである。【『魏略』にいう。その国で建物を作る時には、 木材を横につみ重ねて作る。牢獄のような格好である】この国は鉄を産し、韓、穢、倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いて、 ちょうど中国で銭を用いているようであり、またその鉄を楽浪と帯方の二部にも供給している。人々は歌舞や飲酒がすきで、瑟(大琴)があるが、その形は筑に似て、 演奏すればちゃんとした音楽をなす。子供が生まれると、すぐ石でその頭をおさえつけて、偏平にしようとする。現在の辰韓の人はみな頭が偏平である。男女の様子は、 倭人たちに近く、入れ墨もしている。歩兵戦に巧みで、兵器は馬韓と同じである。風習として道で人に会うと、みな足をとめて道をゆずり合う。 ▲【弁辰】 は、辰韓の者と住む場所が入りくんでおり、その居住地のまわりにも城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や掟も似ているが、鬼神の祭祀に違いがあり、竃はみな家の西側におかれる。弁辰のうちの涜盧国は倭と境界を接している。十二の国には、さらにそれぞれに王がいる。弁辰の人々の体つきは大がらで、衣服は清潔で、髪を長くのばしている ……中略……p305 御存じ【魏志倭人伝】は、省略。 [陳寿著?『三国志』?]今鷹真?小南一郎?井波律子著、世界古典文学全集24B コメント:魏志東夷伝の「夫余、高句麗、東沃沮、邑婁、穢、韓、馬韓弁韓辰韓、倭」の中の一部である、【魏志倭人伝】のみが鬼道と記載されていることにカギがあるように思う。 [陳寿著?『三国志』1]今鷹真?小南一郎?井波律子著、世界古典文学全集24B ◎張魯母始以鬼道、 又有小容、常往来焉家。故焉遣魯為督義司馬、往漢中、断絶谷閣、殺害漢使。焉上書言、米賊断道、不得復通。又託他事殺州中豪強王咸?李権等十余人、 以立威刑。健為太守任岐及賈龍、由此反攻焉。焉撃殺岐?龍。『三国志?英傑伝』[張魯伝]陳寿著、裴松之注、徳間書店久米旺生分担執筆? ▲「劉焉」は霊帝(在位168~189)の治世のもとで政治が腐敗し、皇室にも問題が多発する状況をみて、 上書した……中略……p113ところで、張魯の母親は鬼道(妖術)の心得があり、美貌の持ち主だったので、 劉焉の家にも始終出入りしていた。これが縁で、劉焉は張魯を督義司馬(軍事副官)に任じて漢中を治めさせ、桟道をこわして交通を断ち、朝廷からの使者が来ればみな殺した。劉焉は、 「五斗米道の賊どもが桟道を破壊したので、連絡もとれません」と朝廷に報告した。その一方、口実を設けて州の豪族王咸や李権ら十余人を殺し、 益州の支配者たることをしめした。 これに対して、健為郡の太守任岐と賈龍が劉焉を攻めたが、劉焉はふたりを破って殺した。 《五斗米道》後漢の末、病気をなおすことを教えの中心とした道教の一派で、道教各派の中でもっとも早く成立した。 入信者は病気治療代として五斗の米をさし出したので、五斗米道という。教団は、病気になるのは当人に罪があるからだと説いて、静かな部屋に巣わらせて、 反省させた。教祖は張陵という人物で、その子の張修が継ぎ、さらにその子の張魯が教団を率いた。陜西省南部から四川省東北部が教団の根拠地であり、 とくに張魯は漢中に一大王国を築いて盛んな勢いを誇ったが、215年曹操によって滅ぼされた。 『三国志?英傑伝』「劉焉伝」陳寿著、裴松之注、 徳間書店久米旺生分担執筆?p109~p114 コメント:鬼、鬼道の意味が原文と日本語訳とでは、微妙にニューアンスが違うように感じる。 学者によって意見が違ってくるところである。 ◎張魯字公祺、沛国豊人也。祖父陵、客蜀、学道鵠鳴山中、造作道書以惑百姓、 従受道者出五斗米、故世号米賊。陵死、子衡行其道。衡死、魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬、輿別部司馬張脩将兵撃漢中太守蘇固、魯遂襲脩殺之、奪其衆。焉死、子璋代立、 以魯不順、盡殺魯母家室。魯遂據漢中、以鬼道教民、自号「師君」。其来学道者、初皆名「鬼卒」。 受本道己信、号「祭酒」。各領部衆、多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐、有病自首其過、大都輿黄巾相似。諸祭酒皆作義舎、如今之亭伝。又置義米肉、縣於義舎、行路舎量腹取足、 若過多、鬼道輒病之。犯法舎、山原、然後乃行刑。不置長吏、皆以祭酒為治、民夷便楽之。雄據巴、漢垂三十年。漢末、力不能征、遂就寵魯為鎮民中郎将、領漢寧太守、通貢献而己。 民有地中得玉印者、群下欲尊魯為漢寧王。魯功曹巴西閻圃諌魯曰、「漢川之民、戸出十萬、財冨土沃、四面険固、上匡天子、則為桓、文、次及竇融、不失冨貴。今承制署置、勢足斬断、 不煩於王。願且不稱、勿為禍先。魯従之。韓遂、馬超之乱、関西民従子午谷奔之者数萬家。『三国志』巻八「魏書」[張魯伝]255 ▲張魯は字を公祺といい、沛国豊県の人である。祖父の張陵は、蜀に身を寄せ、鵠鳴山の山中で道術を学び、道術の書物を著わして人民をまどわした。 彼のもとで道術を学ぶ者は五斗の米をお礼に出した。 そのために、世間では米賊と呼んだ。張陵が死ぬと、息子の張衡がその道術を行った。張衡が死ぬと、張魯がまたこれを行った。 益州の牧劉焉は張魯を督義司馬に任命し、別部司馬の張脩とともに、軍隊をひきいて漢中太守の蘇固を攻撃させた。張魯はけっきょく張脩を襲撃して殺害し、その軍勢を奪い取った。 劉焉が死に、子の劉璋が代わって立つと、張魯が服従しないという理由で、張魯の母と家族を皆殺しにした。張魯はそのまま漢中を占領し、妖術によって住民を導き、みずから「師君」と号した。道術を習いに訪れた者に対して、最初はすべて、 「鬼卒」と呼び、本格的に道術を授けられ、信心するようになった者を「祭酒」と呼んだ。 祭酒たちはそれぞれ一団の信者を支配し、団の人数が多いものを(とくに)治頭大祭酒と呼んだ。誠実であれ、人をだますなと教え、病気にかかると、犯した過失を告白させた。 これらはだいたいすべて黄巾と同じであった。祭酒たちはみな義舎を作ったが、それは今の亭伝(駅舎)と似たものであった。 また義捐の米肉を設け、義舎にぶら下げておき、旅人に腹の空き加減を計算して満腹するだけのものを取らせた。もしも必要以上にとった場合には、 妖術でたちまち病気をもたらすというのであった。規則に違反した者は、三度まで許され、そのあとはじめて刑罰を受けた。 長吏(県の高官)を置かず、すべて祭酒によって治めさせたので、庶民も蛮民もそれを便利として喜んだ。(こうして)三十年になんなんとする間、巴?漢の地域をおさえて覇をとなえた。 後漢末、(朝廷は)征伐する力がなかったので、張魯のもとに使者をやり、鎮民中郎将に任じ、漢寧太守の官につけ、 貢物を献上する義務だけを課すという恩寵を与えた。住民の中に地中から玉印を手に入れ(献上し)た者があり、部下たちは張魯に漢寧王の尊号を名乗ることを望んだ。 張魯の功曹である巴西の閻圃が張魯を諌めて、「漢川の住民は十万戸を越え、財力は豊か、土壌は肥沃、四方は険固な地勢によって守られておりますゆえ、 うまくいって天子をお助けできれば、(春秋時代の覇者)斉の桓公や晋の文公のようになれましょうし、それがだめでも(後漢の初め光武帝に帰服した)竇融となって、 富貴の身分を失うことはないでしょう。いま、独断で処置しうる権限を与えられて、刑罪を断行するに充分な勢力をもたれており、 別に王になるまでもございません。どうかしばらくは王と名乗られることなく、まっさきに災厄を受ける羽目におちこむことのないようになさってください」といい、張魯はこの意見に従った。 韓遂と馬超の乱のとき、関西の住民のうち数万の家族が子午谷を通って、彼のもとへ逃げ込んだ。『三国志』「魏書」[張魯伝]p256、世界古典文学全集24B 『典略』 にいう。熹平年間、妖術を使う賊がさかんに起こり、三輔には駱曜という者がいた。光和年間になると、東方には張角、漢中には張脩がいた。駱曜は住民に「緬匿の法」を教え、 張角は「太平道」を行ない、張脩は「五斗米道」をおこなった。太平道というのは、巫師が九つの節がある杖を手に持ってまじないをし、病人に叩頭させ過失を反省させてから、 まじないの水を飲ませる。病気にかかっても短時日で快癒した場合には、この人は信心が深いといい、癒らなかった場合には、信心しなかったからだ、といった。 張脩のやり方もだいたい張角と同じで、静かな部屋を設け、その中へ病人を入れて過失を反省させるというものであった。また、姦令祭酒の役を置いた。 祭酒は『老子』五千字を習熟させることを役目とし、姦令と称した。鬼吏を置き、病人のために祈祷することを役目とした。祈祷の方法は、病人の姓名を書き記し、 罪に服するという意味のことを述べる。三通の文書を制作し、その一通は天にたてまつるため山の頂上におき、もう一通は地中に埋め、残り一通は川に沈める。これらを三官手書と名づけた。 病人の家から五斗の米を供出させるのを常例とし、そのためにただでたらめを行うだけであったが、しかし、賤民は無知であるから、 きそいあってこれに仕えた。後年、張角が誅滅されると、張脩もまた滅亡した。張魯は漢中を根拠とすると、そこの住民たちが張脩の教えを信仰し実行していることを利用し、 この教えに手を加え粉飾した。 義舎を作り、米と肉をその中に置いて旅人をひきとめることを命じ、また些細な罪を犯して隠している者に対しては、道路を百歩の間修理すれば、 罪を免除すると命じた。また、季節のきまりに従って、春と夏は殺戮(死刑と狩猟)を禁止した。また飲酒を禁止した。流浪してこの地に身を寄せている者で、服従しない者はいなかった。 臣裴松之が思うに、張脩は張衡とあるべきである。『典略』が誤っているのでなければ、伝写される際のまちがいであろう。「魏書」[張魯伝]256、世界古典文学全集24B コメント:魏志倭人伝は陳寿著?『三国志』の中の「魏書」の中の[烏丸?鮮卑?東夷伝]の東夷伝の中の末尾に書かれた一文にすぎない。 倭国は[烏丸?鮮卑?東夷伝]に書かれている何十カ国の中の一国にすぎない。他は鬼神となっているのに何故か、倭国だけが「鬼道を事とし」と記載されているのだろうか。 呪術的宗教儀式によって国の方針が決められていたから特記されたのではなかろうか。Kino 『魯迅』……「人」「鬼」の葛藤。 丸尾常喜著。岩波書店1993年12月22日。第一刷発行。 1937年熊本県人吉市生まれ。東京大学文学部卒。 大阪市立大学大学院文学研究科修士過程中退。北海道大学文学部助教授をへて、 現在東京大学東洋文化研究所教授、文学部教授。 序章【「人」と「人の国」】…p7… 「狂人日記」につずく魯迅の小説は、彼自信が「病態社会の不幸な人々と」と呼んだ中国民族、言葉を換えていえば「人」欠如態としてとらえられた中国民族の人生の不幸や苦痛を描こうとしたものであった。本書はそのような「人」の欠如態を「鬼(き)」という中国の伝統的な観念のイメージによりつつ考察しようとするものである。そのために彼の代表作「孔乙己(コンイーチー)」「阿Q正伝」「祝福」の三作を選び、随時他の作品にも言及しつつ、魯迅小説の世界、少なくともそのもっとも重要な特徴を明らかにしたいというのが本書の目的である。 ▲「鬼」は日本語でいう「オニ」ではなく、亡霊、死者の霊魂のことである。したがって、魯迅の作品に先立ち、 中国伝統社会において「鬼」がどのようなものであったのか、人と「鬼」はそこでどのような関係をとり結んでいたのか、魯迅の家族とその周辺にそのあり方を探ってみることから始めることとしたい。 …p8… 第一章【「人」と「鬼」】…p10… 〔一〕【「人」と「鬼」の関係】……祖先祭祀 ▲「人」は死ねばすべて「鬼」となる。 「鬼」の一部、たとえば孔子、老子などの聖賢、関羽、岳飛などの英雄の「鬼」が「神」となることはあっても、 このことに変わりはない。中国の伝統的観念では、「鬼」はわが国でいう「オニ」とはことなり、人間の死後の存在である。魯迅の実弟で文学者である周作人は次のように述べている。 ▲私はいつも思うのだが、中国の人民の感情と思想は鬼に集まり、 日本では神に集まる。 したがって中国を理解しようとすれば礼俗を研究せねばならず、日本を理解しようとすれば、宗教を研究せねばならない。(「我的雑学」十四、1944) ▲「鬼」の観念が単に礼俗に属するものかどうか、それはのちに問題にすることにしよう。中国人民の感情や思想のりかいに「鬼」の研究が必要であることを述べる周氏の意見は傾聴に値する。 それでは「鬼」の実体は何かということになると、その観念には実にさまざまな層がある。のちに言及するように、儒家は「鬼」にたいする祭祀を重視したが、 孔子はその祭るべき「鬼」を自分たちの祖先の「鬼」に限定し、祖霊以外の「鬼」にたいする祭祀を「諂(へつら)い」としてしりぞけた。しかも彼は「鬼」の実体については何も語っていない。 荀子は明確に実体としての「鬼」の存在を否定してさえいる。それでいながら、彼もまた祖先にたいする祭祀を重視した。 儒教の徒においても人により時代により「鬼」にたいする考え方はさまざまであり、さらに道教、仏教の思想が加わって、「鬼」の観念は複雑な様相を呈している。…p11… 中国伝統社会の習俗?儀礼を最近にいたるまで比較的よくのこしている台湾の漢族社会に関する現地調査の報告などを参考に、 中国伝統社会末期の民間における「鬼」の基本的な観念を簡単に整理するならば、それはおよそ次のようになるであろう。 「霊魂」というものが存在し、それは「陽間」(明界)において「人」の身体に宿り、これを支配するが、 「人」が死ねばその身体を離れて「陰間」(幽界)に入り、一つの世界をつくる。 「人」は「陽間」、「鬼」は「陰間」における霊魂の存在形式である。ただし重要なことは、「陰間」での「鬼」の「生活」〔この語は魯迅の散文「死」(1936)のなかでもちられている〕が、 彼らの子孫が「陽間」よりおくりとどける食物?衣服(「紙衣」)?金銭(「紙銭」)などによってささえられると考えられていることである。 このような観念のもとでは、祖先祭祀とはこれらのものを祖先の「鬼」にとどけることを意味する。そのため、後継を欠き、祭祀をうけることのできない「鬼」は、 「陰間」で悲惨な「生活」をおくることになる。これを特に「孤魂」といい、腹を空かしたイメージから「餓鬼」ともいう。 これらの「孤魂」は、「陰間」で安定した生活が得られないために、夜間に「陰間」を離れて「揚間」に出没し、他の「亡魂」(夭折者の「鬼」)、 「怨魂」(不慮の死を遂げた者の「鬼」)、「冤魂」(無実の罪で処刑された者の「鬼」)などとともに、「野鬼」(遊魂」)となって空中をさまよい、 村々に病気や災厄などをもたらすものと考えられた。 また縊死者や水死者の霊魂(「縊鬼」または「吊死鬼」、「溺鬼」または「淹死鬼」)は、身代わりを求めて人を誘惑する(「討替代」)と考えられ、恐れられた。そのため、彼らを鎮撫し、 追いはらうための諸種の儀礼が行われる。…p12… …p235…本節の冒頭で引用したように、魯迅は中国人の頭上に君臨するのは「神」ではなく、「礼」であると述べている。だが、その「礼」の基本は「祭祀」とりわけ「祖先祭祀」にあった。 「孝」とは何かというといに、孔子は明確につぎのように答えている。 生には、之れに事うるに礼を以てし、死には、之れを葬るに礼を以てし、(鬼には)之れを祭るに礼を以てす(『論語』「為政」)。 このような「孝」は加地氏のいうように、確かにわが国で見られる道徳的孝とは対照的に、宗教的孝というべきものである。…p236… ▲孔子は祖霊(「鬼」)にたいする祭祀を重視したが、「鬼神」については、「子は怪力乱神」を語らず」 (『論語』「述而」)といわれるように、『論語』には数語しかのこさず、まして「鬼」の実体については何も語っていない。彼がはたして有鬼論者であったか無鬼論者であったかについて、 相異なる意見がこれらの数語をめぐってくり返されてきた。魯迅自身は、孔子の「鬼」にたいする態度について、次のように述べている。 ▲孔子先生はたしかに偉大であった。巫や鬼の力があのように盛んだった時代に生まれながら、決して世間に追順して鬼神を語ろうとしなかった。しかし残念なことに利口すぎた。 二つの「如」に「辛辣な皮肉」の意をこめているのだが、聞いた者はわけがわからず、彼の腹のなかの反対意見を見抜くことができない。彼は……鬼神に宣戦はしなかった。 孔丘先生は深く世故に通じた老先生であったから……大胆な破壊者になろうとはしなかった。それで語らぬだけにとどめて、決して罵らなかったのである。かくして彼は立派に中国の聖人となった。 その道は大きく、包まざるところなきが故である。そうでなければ、今聖廟に祭られているのは、孔という姓ではなかったかもしれない(「再び雷峰塔の倒壊を論ず」、1925)。…p237… ▲…p243…朱子の鬼神論については、周作人に次のような一文がある。 中国で鬼?神というのは、実は本来同じことである。なぜなら中国宗教はすなわち礼教であり、 天神?地祇は空事にすぎず、実際は人鬼にすぎないのだ。もし人が死んでから鬼というものにならなったら、そうすれば神々もなくなる。だから無鬼論が中国ではたいへん重要になる。 しかしその成績はずっとあまりふるわなかった。宋儒は彼らの説では無鬼を主張したが、一方で極端に礼教を擁護した。結果としては前門から虎を閉め出したが、 後門から狼を引き入れたようなものだ。それだけでなくのちに儒教徒はそのうえ道士化してしまい、とてつもなく混乱してしまった(「無鬼論」、1964)。 ▲…p244…周作人も朱子の鬼神論を無鬼論ととらえている。だが周作人のいう「無鬼」の主張と極端な「礼教」の擁護との内的関連にたいしてもう一歩つきつめて考えるならば、 「前門から虎を閉め出したが、後門から狼を引き入れた」というのは、朱子の鬼神論が一種の無鬼論化をとげることによって、 よりいっそう祭る者の「誠敬」が強調されざるをえなくなった事情をさして述べていると理解することができる。この間の事情は、『論語』「八侑(有は八に月)はちいつ」の「祭るには在すが如くす、 神を祭るには神在すが如くす」の章に、朱子の注釈が范祖禹の次の語を引いていることから、いっそうよく理解することができよう。 君子の祭るや、七日戒し、三日斎す。必ず祭る所の者を見るは、 誠の至れるなり。是の故に郊すれば則ち天神格り、廟すれば人鬼享く。皆己れに由りて以て之を致すなり。其の誠有れば則ち真の神有り、其の誠無ければ其の神無し。謹しまざるべけんや。…p245… 『原弥生人の渡来』鳥越憲三郎著(p127)に唐代のてん池周辺では、 [帰王を同じ白蛮の大鬼主(大祭司)の爨?崇道が殺し、白蛮の中で覇権をめぐる内乱がおこった。]とあるので、原書『新唐書』の、その箇所の素読を試みた。 この史実から中国では鬼がどのような意味に使われておって、日本人の「オニ」という鬼とは意味が全く異なり日本人に誤解されているように思われる。 もちろん、中国においても、唯一、鬼が先祖の霊と云うわけではない。前掲の魯迅の著書にその例をみる。鬼主とは日本で言えばさしずめ神主のことか。 『新唐書』歐陽修著(宋)、国書刊行、p502、上段、16行目。 ▲大和六年、南詔、其の民三千をかすめて(掠)、之を柘東にうつす(徒)。 ▲両爨蛮、曲州と靖州の西南、昆川の曲軛晉寧喩献安寧自り、龍和城にいたる(距、へだつ)。通じて、之を西爨白蛮と謂う。 ▲彌鹿、升麻、二川自り、南して、歩頭に至る。之を東爨烏蛮と謂う。 ▲西爨、自云う、本と、安邑の人なり。七世祖、晉の南寧の太守のとき中国乱る。遂に、蛮中に王となる。 ▲梁の元帝の時、南寧州の刺史、徐文盛、召て、荊州に詣る。 爨の なる者有りて、其の地に據る。 延豪二千餘里の土(地)は、駿馬、犀、象、明珠、多し。 ▲既に死し、子震 其の衆を分統し、隋の開皇の初、使を遣し、 朝貢す。 韋世沖に命じ、兵を以て之をまもる(戍)。恭州、協州、昆州を置くも、未だ幾許せざるに、叛く。史萬歳之を撃つ。 西 河、 池に至りて、還る。 震 懼れて入朝す。文帝之を誅す。 諸子没して、奴と為す。 ▲高祖即位す。其の子、弘達をもって昆州の刺史となす。父の喪を奉じて帰る。益州の刺史段綸、兪大施を遣す。南寧に至りて、 共範川を治む。諸部誘い、皆よしみを通じて(納款)、方物を貢す。 ▲太宗、将を遣し、西爨を撃ちて、青蛉弄棟を開き、縣となす。中略、502、13行… ▲高宗 左領軍将軍、趙孝祖を以て、郎州道行軍総管と為し、懐王と、之を討つ。 羅 候山に至る。其の酋長、 禿磨蒲は、大鬼主、都于とともに、衆を以て、青口を塞ぐ。孝祖大いに之を破る。 ▲夷人鬼を尚ぶ。主祭の者に、謂う、鬼王の為、 毎歳、戸、一牛或いは一羊を出す。其の家に就、之を祭り、鬼を送り、鬼を迎う。必ず兵有りて、因って以て仇を復す。 ▲云く、孝祖、軍を多棄城にとどめ(按)、北を遂い、周近水にいたる。大酋儉彌于、 鬼主董朴、水辺にそって(瀕し)、柵を為し、 軽騎を以て逆に戦う。孝祖撃ちて彌于、禿磨蒲、鬼主十餘級を斬る。曾く、大雪、皸(ひび切れ)して、凍死する者、あらましつきた(略盡)。 ▲孝祖上言す。小勃弄。大勃弄。常に弄棟に誘い、叛く。今因って、白水に破る。請うて遂に西して討つ。詔して可とす。孝祖軍入る。夷人皆険に走る。 小勃弄の酋長ぼっするも(歿)、盛ん。白旗城にたむろす(屯)。萬騎を率いて戦いて敗る。之を斬りて進む。大勃弄に至る。楊承顛、嬰城を守る。 孝祖之を招く、従わず。軍を麾て進む。承顛、餘屯を執る。大なる者数萬、小は数千、皆破りて、之を降し、西南夷、遂に定る。 郎州の都督を罷免し、 更に戎州都督を置く。爨の弘達、既に死す。爨の歸王を以て南寧州都督と為す。居石城を監督。東爨の首領蓋騁及び子蓋啓を襲い、殺す。 共範川を徒る。 両爨の大鬼主、嵩道なる者有り。弟、日進、日用と、安寧城の左に居る。聞章佐兼瓊、歩頭路を開き、安寧城を築く。群蛮、震騷す。共に築城の使者殺す。玄宗、蒙歸義に詔して、之を討つ。師、波州にいたる(次ぐ)。歸王及び崇道兄弟千餘人泥首して、罪を謝す。之を赦す。 ▲俄(而)にして、崇道、日進及歸王を殺す。歸王の妻阿 は烏蠻の女なり。父の部洛に走り、兵を乞い、相い仇す。是において、諸爨亂る。阿 使いを遣し、歸義に詣り、夫を殺せる者を求む、書聞、詔して、其の子守隅を以て、南寧州都督なす。歸義女を以て之を妻とし、又一女を以て崇道が子、輔朝然に妻らす。 ▲崇道 守隅 相い攻め討つこと、置かず。阿 歸義を訴え、為に師を興し、昆州に営す。崇道黎州に走る。遂に、その族を虜え、輔朝を殺す。其の女(むすめ)を収め、崇道俄に亦殺さる。諸爨稍く離弱閣羅鳳立して、守隅を召す。妻を并して歸る。 河 、中国通ぜず。 阿 自ら其の部落を主となる。歳に入朝恩賞。蕃厚閤羅鳳、昆川城使楊牟利を遣す。…503…上18行… …503…下1行… ▲西爨の故地に居り。峰州と隣となす。貞元中、都督府を置く。羈麼州十八を領す。南詔と世々昏姻し、其の種七部落に分る。一に曰く阿芋路、曲州靖州の故地に居る。二に曰く阿猛。三に曰く菱山。四に曰く暴蛮。五に曰く盧鹿蛮。二部落に分る。竹子嶺を保つ。六に曰く磨彌斂。七に曰く勿 の土。牛馬多し。布帛無し。男子 髻。女人被髪皆牛羊の皮を衣る。俗は誣鬼を尚び、拝跪の節無し。 ▲其の語は四譯なり。乃、中国と通じ、大部落、大鬼主有り。百家、則ち、 小鬼主を置く。勿 の地方千里、 部六姓有て、一姓白蛮なり。五姓烏蛮なり。 ▲ [サ]=婦人が喪中に結ぶ髪。笄等を用ゐぬもの。 髻[ケイ、キツ]=もとどり、たぶさ、髪を頭上に集めて束ねたところ。 ▲ 海=川の名。 水=雲南省大理県の東、古の葉楡水、別名西 河能谷山に発す。 『邪馬台国と倭国』 古代日本と東アジア、 西嶋定生著、吉川弘文館、平成六年一月十日第一刷発行 1919年生。1942年東京大学文学部東洋史学科卒業。文学部教授、現在東京大学名誉教授。 「 王之印」出土の地で……p85…… 私が雲南省昆明市を訪れたのは、1982年もおしつまった十二月二十九日のことであった。地図でみると昆明市は標高二〇〇〇メートルに近く、地形図では必ず茶褐色に塗られていて、高い山岳地帯であることが示されている。ところが訪れてみると、まず驚かされることは、そこは 池という琵琶湖より大きいと思われる大きな湖水のほとりに、広々と開けた平坦な土地で、しかもその広大な耕地には、冬の最中というのに、みずみずしい青緑色の作物が、目のとどくかぎり生育しているのである。……中略…… 「世界を驚かせた発見」 石 山は東西二〇〇メートル、南北〇〇メートル、高さ三三メートルの小丘で、 池に面した北側は急傾斜しているが、南側は緩傾斜で、金印が出土した古墓群の遺跡はこの南斜面にある。……中略…… この古墓群の発掘は1956年から1960年にかけて実施され、その結果五〇基の土坑墓が発見され、青銅製品を主とする各種の副葬品四〇〇〇点あまりが出土した。 「漢の外交に思いを」 ところで、この 王之金印と同じ形式の金印が福岡県の志賀島出土の金印である。こちらは江戸時代に発見されたもので、同じく蛇鈕、その印文は「漢委奴国王」の五字三行、後漢光武帝が建武中元二年(57)に下賜したものであることはほぼ間違いない。その年代は一六六年のへだたりがあるが、ともに漢王朝が外民族の首長に与えて、これを王に冊封じたしるしであったことに相違はない。 『史記』司馬遷、「西南夷列伝」第五十六、中国古典文学大系上、平凡社 元封二年(前109)、天子は巴?蜀の兵を発して、労浸?靡莫を撃滅し、軍を に迫らせた。しかし、 王は初めから常に漢に善意をもっていたので、誅殺はしなかった。 王は西南夷から離れて国をあげて降り、漢の役人を置き入朝したいと請願した。そこで、その地を益州郡(雲南省)とし、 王に王の印を賜い、もとどおりにその民の君長とした。西南夷の君長の数は数百であるが、ただ夜郎と だけが王の印を受けた。 は小国であるが、漢に最も寵遇された。 太史公曰く、 楚の先祖は天の福禄をうけたのであろうか。周の時代においては文王の師となり、楚に封ぜられた( 熊とその曾孫の熊繹の故事、楚世家第十参照)。周が衰えたときには、地は五千里と称された。秦は諸候を滅ぼしたが、楚の苗裔だけは真王として残った。漢は西南夷を誅して国は多く滅びたが、 だけはまたも漢の天子の寵遇する王となったのである。しかし、南夷の事件の発端は、唐蒙が枸醤を番禺で見たことにあり、大夏の事件の発端は、張騫が の竹を杖としているのを見たことにあった。西夷は後に分割されて、西と南にの二方にわかれ、ついには七郡となった。 中国においては、神は天神地祗、鬼は先祖の霊。しからば、日本においては「かみ」の本体は何であるか。 コメント:漢文は中国人のためにある。魏書倭人伝も中国人が書いたものであるが故に、 中国人の法則で解釈すべきである。鬼は「祖先の霊」を意味する語であることは自明の理であるにかかわらず、「鬼道」という文字を見ると邪教という潜在意識 が心の隅で蠢きだす。事実、邪の要素も合わせもっている語のようにも思えるが、いかがなものであろう。 以下の日本の八百万神は中国人がみれば、『新唐書』の大鬼主のように、鬼と見なすのではなかろうか。「魏書」倭人伝で 「鬼道を事とし、 よく衆を惑わす」の意味は日本人流の解釈でなく、中国人に問うたほうがよい。日本でも宮司が領主であった時代が記録されている。さもないと私は、新唐書の史実が理解できない。 『神道事典』国学院大学 日本文化研究所 弘文堂 [第二部]神…p36 ▲神道といえば、すぐに八百万神ということばが想起されるように、神道には実に多数の神々が存在している。神道が一般に多神教と称されるゆえんである。しかし、このように神道には神々が多く存在しているからといって、それらの神々は個々ばらばらで、系統性をもっていない存在というわけではない。むしろ、以下の「神の語義と類型」や「天ち神?国つ神」などの記述からもわかるように、多神教と呼ばれる神道の神々は、かなり類型化?系統化されており、その機能や神格によって同一範疇に括れる神々が多く存在する。 ▲このように、神道の神々は多数存在しながらも、しかもある程度有機的に関連しあっているのであるが、その神々のなかでも基本となり、神道の神の中核的位置を占めているのが古典の神である。古典の神とはいうまでもなく、『古事記』『日本書紀』『古語捨遺』『風土記』『万葉集』などの日本古代の文献に記載されている天照大神をはじめとする神々を指しており、夥しい数の神々がこれらの古典には登場している。しかしながら、古典に登場している神々のすべてが明確な事跡や機能、働き、神格をもっているわけではなく、神社の祭神として、あるいは神道系教団の崇拝対象としての神々の数となると、さほど多くはないのが現実である。……p36中…… ……p36下……ここで神道の神として扱っているのは、古典の神以外では仏教や道教、陰陽道と習合した神、さらには特定の固有名をもたない民間の神々などである。 ▲【神の語義】……『神道事典』p37…… 神の語義については鎌倉時代前期の仙覚による『万葉集注釈』(…略…)以来、南北朝時代の神道家と思われる忌部正道の『神代巻口訣』など幾多野の説が提示されてきた。そのうち、忌部正道の上掲書の「上者神常在高天原故宇会云嘉牟(…略…)に触発された「神は上なり」という説は江戸時代初期に盛んに唱道され、明治以降はほとんど定説化していたが、その後の上代特殊仮名遣い研究の進展に伴い、「神」と「上」は別個の語であったという反論も出されている。………中略二段に移る………『神道事典』p37…… ▲本居宣長も説くように、「迦微かみと申す名義(なのこころ)は未だ思い得ず(旧く説ることどもみなあたらず)であり、語義からの解明は困難と思われる。そこで一般には以下に引く宣長が実際の用例から帰納的に導き出した定義が、日本人のもつ神観念を包括的に捕えたものとして評価され受容されている。………中略……… ▲宣長は人間、自然、動植物なんであれ、超自然的で異常な力の存在を感じさせ、畏敬の念を抱かせるならば善悪を問わず神であるとしているのだが、不可視な神々が木、石、火などの自然物や鏡、御弊などの依代に宿ったり、風や雷などの自然現象として示現したり、人に憑依して託宣したりするという事実と合致する。換言すれば、そうした自然物、人間に宿って示現しない限り、浮遊しているままでは神々としての力は発揮されないのである。日本の神々は具体的な事物?現象?局面において観念されるもので、抽象?観念?理念的存在ではない。したがって、自然の事物?現象が恵ばかりでなく災害ももたらすのと同様に、善悪の一方のみの存在でありえず、和魂?荒魂の両面をもつと考えられる傾向にある。……『神道事典』国学院大学日本文化研究所 弘文堂 【神の類型】……『神道事典』38……神々はまず《1》自然神と人間生活にかかわる《2》文化神とに大別される。 《1》〔自然神〕とは自然物や自然現象を神格化したものだが、上界の神々と地上の神々とに分けられる。上界の神々には天体や大気現象の神格化が属し、 地上の神々には地形や地上の自然現象、動植物などの神格化が属する。上界の神々のうち、天体神としては太陽神、月神、星神があり、大気現象の神々としては風神、 雷神がある。地上の地形にかかわる神々としては地神(地主神)、山神、峠神、薮神、森神、柴神、岩や石の神、海の神、河の神、湖?池?沼の神、島の神などがある。 自然現象の神としては水神、火神という分類も行われている。動物の神格化としては蛇、鰐(鮫)、鹿、猪、狼、熊、猿、狐、兎、烏、鳩などがある。このほか、 空想の動物として竜もいる。これらの動物神は、蛇と湖?池?沼の神、熊?猪?鹿と山の神、烏と太陽、兎と月、海神と竜などのように自然神と密接な関係にあり、 その顕現あるいは使いとされることが多い。……以下略……『神道事典』38…… 《2》文化神は〈1〉社会集団の神々、〈2〉人間の特定の面を守護する職能神、〈3〉人が神になる人間神の三つに大別できる。 〈1〉「社会集団の神々」……屋敷神、部落神、血縁集団を守護する血縁神、氏族集団を守護する同族神、部落神、道祖神、境の神がある。氏神は観念てきには血縁神だが、 実際には血縁集団は地縁集団と重なり合うことが少なくなく、……『神道事典』37…… 〈2〉「人間の特定の面を守護する職能神」には産神、疫神、縁結びの神、死神、 ……農業神(穀物神、田の神)、山の神、漁労神、商業神、航海神、軍神、学問神、竃神、井戸神、 納戸神、厠神、厩神。産神、疫神、……『神道事典』37…… 〈3〉の人間の例には、生者のままで神とされる場合と、死後に神として祀られる場合がある。前者としては病気治療や託宣を行う行者、巫者、偉人、天皇などの例があるが、 そのほか、祭りなどで一時的に神が憑依する場合にもその人物が神として崇められることがある。後者としては死者が祖先神とされるもの、 不慮の災難や怨念をいだいて亡くなった御霊(ごりょう)や怨霊が 御霊神となるものがある。しかしこうした分類は便宜的なもので、実際には場面に応じて複数の異なる分類範疇の形態をとる神々が考えられる。柳田国男は、人は亡くなると祖先神となって山に鎮まり自然神である山の神となるが、春先には里に降りてきて田の神となり、子孫の農耕生活を守護し、 そして秋の収穫後は再び山に戻って山の神になると考える。また彼は、祖先神は氏神に吸収され地域の守護神になるし、同族神、屋敷神にも祖先神的性格が認められるとする。 このほか、人間神のうちでも、菅原道真や平将門などは雷となって恨みをはらすため祟ったことから御霊神として祀られたが、この場合人間神と雷という自然神が重複している。 (松村一男)……『神道事典』38…… コメント:[四等官しとうかん]大辞林 令制官司の幹部職員たる長官かみ?次官すけ?判官じょう?主典さかんの総称。 長官は業務の総括、次官はその補佐、 判官は一般事務処理、主典は文書作成を主な職務とする。 主典さかんの総称。八省は卿?輔?丞?録。  衛府は督?佐?尉?志。国司は守?介?掾?目。 アイヌは神を「カムイ」という。「kamui 」と 「 kami」 は同根ではなかろうか。 【神道における道教的要素】 せっかく江戸時代に平田篤胤が先駆的研究をしているのに、近代の神道研究ではそれが十分継承されなかった。なぜそうなったのか。一つには、道教が教団として、あるいはまとまった思想として受容されなかったということがある。また、中国における道教がちょうど神道のように、いろいろな要素を含みもつものであるために、道教の影響といっても何を指標にすればいいのかはっきりしなかったという事情もある。けれども最近は、道教が日本の宗教に与えた影響に注目する研究者も出てきた。さまざまな呪術や占い、祓、その他招福除災的な行為に道教との類似性は多い。東アジアの民俗宗教との比較研究が進むと、神道研究もいっそう面白くなりそうである。……『神道事典』29…… 氏神。うじがみ。p83『神道事典』国学院大学日本文化研究所 弘文堂 本来は古代社会で氏を名乗る氏族(あるいは氏人)が祀った祖先神または守護神のことであるが、氏神を祀る集団の歴史的変遷により、現在では鎮守神、産土神うぶすながみのいずれもが氏神と呼ばれることが多い。中性の武士団が荘園での在地性を強化していく過程で、その土地の神を氏神として祀るようになり、氏神を祀る集団の性核も血縁関係から地縁関係へと展開していき、土地の神である産土神と氏神が混同されるようになった。また同じ頃に、もともとは特定の土地?建造物を守護するために祀られた鎮守神が荘園内に勧請されることにより、氏神と鎮守神も混同されるに至った。現在では、氏神をおおむね三つの類型に分けることができる。第一は村氏神というべきもので、地域内の住民全員が氏子としてその祭りに奉仕するものである。第二は屋敷氏神、家氏神とよばれるもので、各自の屋敷内の祠に祀っているものである。第三はイッケ氏神、マキ氏神などと呼ばれるもので、一と二の中間に位置するマキやイッケとよばれる同族の手によって祀られるものである。p83『神道事典』国学院大学日本文化研究所 弘文堂 ▲【神道に与えた宗教?思想】 (1)神道と中国古代思想、 (2)神道と仏教、 (3)神道と儒教、 (4)神道と陰陽道、 (5)神道と修験道、 (6)神道とキリスト教 (1)【神道と中国古代思想】 [漢字の移入]…… ▲しかし稲作をめぐる習俗において、当初からある程度の共通性を東アジア一般に想定することは可能であろう。農耕に関わる儀礼や、祖先崇拝は外来文化に影響されたものというよりは、東アジア文化圏の共通項として考えたほうがよいと思われる。早初期における影響を論じることはきわめてむつかしい。……「かみ」という言葉に「神」という漢字が採られた際、新解釈や異なった観念が付与された可能性がある。 ▲「神道」の語も漢字で表現された時点ですでに当時におけるいわば民族的理解を経てきているのである。このように、わが国の文化が漢字で表現されたとき、それはなかば翻訳であり、一方でまた漢字が訓読みされてしまえば、それはわが国の表現となり、漢字の原意とはずれが生じることがある。初期の文献中に同一の漢語表現がみられるとしても、そこに中国思想との影響関係を直接的に想定するのは危険である。漢字の移入が即中国文化の受容とはいえない理由がここにはある。……中国宗教思想や伝統的習俗を取り入れて成立したわけではないことである。 ▲中国の陰陽五行説や時令説、災異説などの天人相関説(天人感応のことか?Kino)、風水説などはわが国に受容され、 陰陽寮などを通じて神道思想にも影響を与えた。神武天皇即位紀元年が、辛酉革命説という識緯思想に由来するのはそのよい例である。…………『神道事典』国学院大学日本文化研究所 弘文堂 前田繁樹分担 (4)【神道と陰陽道】 ▲陰陽道は、中国の陰陽五行説に起源をもちながらも、十世紀頃から日本において独自に成立したものである。 古代の律令制の陰陽寮の官人の職務には、陰陽、天文、暦、漏剋の四部門があったが、それらは陰陽道と総称されることはなかった。あえて名づければ陰陽思想、陰陽学というべきものであったが、陰陽道は十世紀頃から賀茂氏と安部氏による呪術的宗教として成立し普及した。 陰陽道とは、このような文脈から祭祀や呪法を操作する陰陽寮出身者の学派やその活動を指すと考えるべきであろう。陰陽道成立の社会的な要因をさぐれば、第一に、陰陽寮の陰陽頭、助、博士が賀茂氏と安部氏に世襲化されはじめたこと、第二に、貴族社会において私的な祈祷、個人的な信仰が拡大したことである。 神道においても、古代律令制の神祇祭祀の変容のなかから神社神道がしだいに形成されてきたとみることはかのうであろう。神社において常住の神職が祭りの執行の主たる担い手となるのは、およそ十世紀以降のことであった。現在まで継続する神社神道の基礎は、この時期に形成されたとみるべきだろう。しかし十世紀以前において陰陽思想と神祇祭祀の間に関係がなかったわけではなく、古代天皇の観念が道教思想に影響を受けていることや伊勢神宮の三節〈神嘗および六月?十二月の月次(つきなみ)祭〉が陰陽五行に則って実施されていた可能性が指摘されているが、なお検討の余地を残している。『神道事典』国学院大学日本文化研究所 弘文堂 林 淳分担 コメント:「日本神道」は知っていたが「日本固有の陰陽道」と云う「呪術的宗教」があることは、私は知らなかった。 中国ではこれを鬼道という。以下の書籍が参考になるのでは。 『陰陽五行思想からみた日本の祭り』;吉野裕子著 弘文堂 『隠された神々』 ”古代信仰と陰陽五行” ;吉野裕子著 講談社現代新書1975昭和50年、405号初版~11版;人文書院1992.11月初版 ▲【陰陽道祭祀の展開】 陰陽寮は、占術、日時、方忌を調べて報告することを職掌としていたが、平安時代に入ると山陵の鎮祭?鎮謝と地鎮めの祭りも担うようになった。さらに貴族社会のなかで陰陽思想の修法?祭法への依存が高まるとともに、九世紀後半から十世紀前半までの間に五穀祈願を目的にした高山祭、五龍祭、雷公祭が国家祭祀として陰陽寮官人によって執行された。十世紀以降は天皇個人にかかわる災厄除去のための陰陽道祭祀が行われはじめ、それとともに陰陽道祭祀は貴族社会に深く浸透していった。たとえば属星祭、鬼気祭、宅鎮祭、雷公祭、本命祭、老人星祭、泰山府君祭、庭火并平野竃神祭三元祭、太一式祭、斬草祭、三方五帝祭、火災祭、大歳祭、海若祭、代厄祭、蛍惑星祭、招魂祭、土公祭が記録類に頻繁に出てくるようになった。これらは星を祭ることで福寿を祈ったり、あるいは災厄?病魔を祓うことを目的とした祭りであった。すでに神祇官人が行っていた律令制の神祇祭祀のなかに、中国系の陰陽思想の要素を含む祭りが存在していた。『延喜式』には四時祭として鎮花祭、風神祭、大祓、道饗祭があり、臨時祭として霹靂神祭、鎮神宮地祭、羅城御贖、宮城四隅疫神祭、畿内境十処疫神祭、蕃客送堺神祭、障神祭などがあげられている。これらは獣皮を用いた中国系の祭祀であり、陰陽道祭祀と共通の性格を有していた。陰陽道祭祀が貴族社会に浸透するなかで、この種の神祇祭祀は陰陽道祭祀に取って代わられた場合があった。十世紀には陰陽寮官人による四角四境(堺)祭(京都の四角の路上で疫神や悪霊を防ぐために行った祭り)が、神祇祭祀であった疫神祭に代わって国家祭祀として重視されるようになったのはその一例である。陰陽道祭祀の普及は国家祭祀としてではなく、むしろ私的な祭祀、個人的な招福除災の呪術として貴族?庶民にひろがったと考えられる。九世紀中葉に神祇官宮主によって完成された中臣祓ですら、十一世紀以降陰陽師に受容されて、七瀬祓、六字河臨法のような陰陽道的な祓に転用されることになった。陰陽師による私的祈祷が、十一世紀後半に急増した伊勢神宮の権禰宣層に受け入れられ、伊勢流祓が成立したといわれている。……『神道事典』国学院大学日本文化研究所 弘文堂 林 淳分担 ▲【神奈備】 神の鎮まる場所。とくに神聖な森や山のこと。神隠(かみなび)の意で、ミモロも同義とされる。「甘南備の三諸山は」「神奈備の三諸の神の」「神名備の三諸の山に」「石走る神奈備山に」などと、いずれも『万葉集』では三諸山(三輪山)にかかって用いられている。『出雲風土記』では神名樋山、神名火山と書き。意宇郡(おう郡)、秋鹿郡(あいか郡)、楯縫郡(たてぬ郡)、出雲郡にあって、その麓に佐太神社があるなど神山である様子がうかがえる。また『延喜式』神名帳には山城国綴喜郡(つずき郡)甘南備神社、丹波国何鹿郡(いかるが郡)珂牟奈備神社、備後国葦田郡賀武奈備神社があり、巻八に載せる出雲国造神賀詞には大穴持命(大国主命?)の和魂(にぎみたま)を大御和の神奈備に、阿遅須伎高孫根命(あじすきたかひこねの命)の御魂を葛木の鴨の神奈備に、賀夜奈流美命(かやなるみ)の御魂を飛鳥の神奈備に鎮め祭ることが見えている。なお、これらが出雲系の神々にかたよっていることは注目される。神体山を浅間型(大山)と神奈備型に別け、後者に三輪山、春日大社の御葢山(みかさ山)、日吉大社の八王子山、上賀茂神社の神山(こう山)、御上神社の三上山など円錐形の山をあてる説がある。 ……『神道事典』176…… ▲【魏志倭人伝から】 古代の中国の歴史書から神道の古い形態をいくらか推測することもできる。西暦二九七年に没した陳寿が編した『三国志』(とくにそのなかの「魏志倭人伝」と通称される部分)には三世紀中葉のわが国の風俗が述べられている。他国の書であり伝聞の誤りなどもあろうが、原本とした魚豢の『魏略』は執筆者生存中の事件をとり扱ったものであることに重要性がある。これによれば、使節団の内に「持衰」と呼ばれる人がいて、頭髪に櫛をいれず、のみやしらみをとらず、衣服は垢に汚れ、肉を食せず、婦人を近づけず、喪人のようにしている。そして一行が無事に目的を達すれば財物などがもらえるが、疫病が出たり、暴風雨にあうと持衰が慎しまなかったからだとする。これは後に遣唐使船に主神司が置かれ、摂津住吉社の津守神主が任命されたものと同一と見られる。 ……神道事典6……さらに女王卑弥呼についての記録をみると、鬼道につかえ、よく衆を惑わしたと言う。惑わすとは言葉で皆を納得させたわけだが、 鬼道とは自然の神であろうからヒミコを日御子あるいは日巫と解釈すれば、太陽を祭っていた可能性もある。……『神道事典』6…… ▲【鬼(おに)】 他界からこの世を訪れて、災厄もしくは祝福をもたらす、異形の超自然的な存在、恐るべき霊威をもつと信じられたゆえに、善?悪の力をもつ両義的存在として祀られたり、忌避されたりすることになった。中国で死者の魂を意味した漢字の鬼は日本でオニ、モノ、カミと読まれた。信仰の形態や姿態などの特徴から、(1)邪霊?悪神としての鬼、(2)異人としての鬼、(3)善神としての鬼の三タイプを考えることができる (1)邪霊?悪神としての鬼、は疫病や病気、四、災害などをもたらす存在で、はじめは不可視であったが、後に可視的に形象化されるに至る。『日本書紀』には「桃を用いて鬼を避く」とあり、桃の実に邪気?鬼を制する呪力があるとする中国の影響がみられる。……『神道事典』85……
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