● テーマ ●
中国出土の文物からみた
中日古代文化交流史
和同開珎と井真成墓誌を中心として
Light Shed on Sino-Japanese Cultural Exchange
by Archaeological Artifacts Found in China
The Wadō Kaihō Coin and the Grave Stone of Sei Shinsei
(an Envoy to the Tang Court)
● 発表者 ●
王 維 坤
WANG Weikun
西北大学国際文化交流学院 教授・副院長
Professor, Deputy President, School of International Cultural Exchanges,
Northwest University
国際日本文化研究センター外国人研究員
Visiting Research Scholar,International Research Center for Japanese Studies
2007年12月12日(水)
発表者紹介
王 維 坤
WANG Weikun
国際日本文化研究センター外国人研究員
Visiting Research Scholar, International Research Center for Japanese Studies
略 歴
1994年10月 文学博士(同志社大学)
1995年12月 西北大学文博学院教授
1998年4月 同志社大学客員教授(2年間)
2003年9月 京都大学人文科学研究所客員教授(半年間)
2004年3月 西北大学国際文化交流学院副院長
著書・論文等
1.『中日の古代都城と文物交流の研究』朋友書店 1997年
2.『中日文化交流的考古学研究』陝西人民出版社 2002年
3.専修大学・西北大学共同プロジェクト編『遣唐使の見た中国と日本―新発
見「井真成墓誌」から何がわかるか』朝日新聞社 2005年
4.戴彤心・王維坤・張洲共著「宝鶏石咀頭東区発掘報告」『考古学報』1987年
第2期
5.「唐章懐太子墓壁画 “客使図” 辨析」『考古』1996年第1期
6.「絲綢之路沿線発現的死者口中含幣習俗研究」『考古学報』2003年第2期
7.「唐代乾陵陵寝
制度
关于办公室下班关闭电源制度矿山事故隐患举报和奖励制度制度下载人事管理制度doc盘点制度下载
的初步探討」京都大学人文科学研究所『東方学報』第76
册 明文舍2005年
8.「保護できぬ発掘無意味」『読売新聞』2007年6月15日第13版
9.「高松塚古墳の思い出」旅の文化研究所『まほら』54号「特集 再訪・再会」
2008年1月
10.「高松塚古墳の『切石』に新説/中国・西北大の王教授が『供物台』」『読売
新聞』夕刊文化欄 2008年1月31日第3版
他多数
はじめにご
紹介
いただきました
王維坤
と
申
します
。
中国唐代
の
都
・
長安
(
現在
の
陝西省西安市)
にある
西北大学
から
参
りました
。
まず
私
がお
話
したいのは
、
西北大学
のキャンパスにつ
いてです
。
現在
キャンパスは
三
ヵ
所
あります
。
その
内
、
二
ヵ
所
は
唐
の
都
・
長安城
の
市内
にあります
。
一
つは
、
もう
一
つは
「
祟化坊
」
にあります
。
発掘
すれば
、
「
太平坊
」
にあり
、
必
ず
色々
な
文物
が
出土
します
。
例
えば
、
一九五四年
、
本部
の
運動場
を
施工
していたとこ
ろ
、
驚
くことに
四
〇〇〇
㎏
の
「
開元通寳
」
が
出土
しました
。
正直
に
言
えば
、
西北大学
の
考古学専攻
の
人気
が
高
まっている
基本的原因
は
、
この
大学
キャンパスで
良
い
文物
が
出土
することだと
思
います
。
この
度
、
私
は
国際日本文化研究
センターの
外国人研究員
かつ
研究代表
として
一年間招
聘
され
、
受入
れ
教授宇野隆夫先生
をはじめとする
日本国内三五名以上
の
教授
・
研究者
と
共同研究
できることを
何
より
嬉
しく
思
います
。
それと
同時
に
、
私
の
肩
に
大
きな
責任
がか
かっていることを
痛感
しています
。
本日
は
、
日文研
のお
陰
をもちまして
第二
〇
八回
のフォーラムで
発表
させていただき
光
栄
です
。
なお
、
皆様
とお
会
いできて
本当
に
嬉
しく
思
います
。
時間
のゆるす
限
り
、
以下
の
̶ 1 ̶
二
つ
の
問
題
点
、
す
な
わ
ち
、「
和
同
開
珎
わ
どう
かい
ほう
」
と
「
井
真
成
せい
しん
せい
墓
誌
」
を
中
心
と
し
て
発
表
さ
せ
て
頂
き
たいと
思
います
。
一、
「和同開珎」の謎
最近
、
私
は
「
日本
の
『
和同開珎
』
の
謎
がついに
解明
した
」
というタイトルで
、
論文
を
書
き
ま
し
た
。
私
の
研
究
は
一
言
で
言
え
ば
、「
和
同
開
珎
」
の
鋳
造
に
か
か
る
複
雑
な
歴
史
的
背
景
と
古代日本人
の
国民性
との
密接
な
関係
についてです
。
古代
の
日本人
は
、
現代
の
日本人
と
同
じように
、
非常
に
賢明
でした
。
特
に
外来文化
を
受
け
入
れる
時
、
そのまま
受
け
入
れるの
ではなく
、
ある
程度選択
して
自国
の
国民文化
に
適
するものだけを
模倣
したのが
、
その
特
徴
です
。
換言
すれば
、
もし
中国
の
古代文字
をそのまま
模倣
すれば
、
中国
の
文字
と
区別
は
できません
。
しかし
、
少
しでも
変
えると
日本
の
国字
になるでしょう
。
ですから
、
日本
の
漢字
は
、
ざっと
見
ると
、
中国
の
漢字
と
同
じですが
、
実際
はすこし
違
うところがあります
。
例
え
ば
、
中
国
の
器
物
の
「
器
」
と
日
本
の
器
物
の
「
器
」、
中
国
の
調
查
の
「
查
」
と
日
本
の
調
査
の
「
査
」、
中
国
の
「
惠
」
と
日
本
の
「
恵
」、
中
国
の
「
德
」
と
日
本
の
「
徳
」、
中
国
の
「
冰
」
と
日
本
の
「
氷
」、
中
国
の
「
臭
」
と
日
本
の
「
臭
」
を
比
べ
る
と
、
い
ず
れ
も
違
う
所
が
あ
り
ま
す
。
̶ 2̶
中
国
の
文
字
の
中
で
は
「、
」
が
あ
る
か
ど
う
か
で
意
味
が
異
な
り
ま
す
。
例
え
ば
、
中
国
の
「
臭
」
と
日本
の
「
臭
」
を
比
べれば
、
一
つの
点
「、
」
という
差
があります
。「
臭
」
という
字
は
、
上
の
「
自
」
は
、
鼻
の
象形字
で
、
下
の
「
犬
」
は
犬
の
象形字
です
。
この
字
は
犬
の
嗅
覚
きゅう
かく
のすぐれ
たことを
表
わします
。
もう
一
つの
含意
は
鼻
が
一点
(
少
しの
意
)
でも
大
きすぎると
、
臭
く
なる
、
つまり
、
中国
では
鼻
が
少
しでも
高
すぎると
、
臭
くなるという
意味
を
表
わします
。
こ
の
字
は
「、
」
が
な
け
れ
ば
、
文
字
に
な
ら
な
い
と
言
え
ま
す
。
で
す
か
ら
、
中
国
で
は
、
日
本
の
よ
う
な
「
臭
」
字
は
あ
り
ま
せ
ん
。
こ
の
点
か
ら
見
る
と
、
日
本
の
い
わ
ゆ
る
「
和
同
開
珎
わ
どう
かい
ちん
」
の
「
珎ちん
」
の
字
は
、
中国
の
「
珍ちん
」
字
の
異体字
ではなく
、「
寳ほう
」
の
真
ん
中
の
部分
である
「
珎
」
だ
けをとって
、
自
ら
造
った
国字
だったと
思
います
。
「
和
同
開
珎
」
と
い
う
通
貨
は
、
実
際
、
唐
高
祖
李
淵
の
武
德
四
年
(
六
二
一
)
に
初
め
て
発
行
し
た
「
開
元
通
寳
かい
げん
つう
ほう
」
を
模倣原型
として
鋳造
した
通貨
だったと
、
私
は
思
います
。
「
開元通寳
」
という
銅銭名
の
文字
は
、
唐代
の
有名
な
書道家
・
欧
陽
詢
おう
よう
じゅん
(
五五七
〜
六四一)
が
書
いた
文字
であったと
言
われています
。
唐代
では
「
寳
」
の
字
の
書
き
方
が
色々
あり
、
例
え
ば
、
こ
の
字
以
外
に
、「
寶
」
の
よ
う
な
書
き
方
も
あ
り
ま
す
。
し
か
し
、
銅
銭
名
の
文
字
と
し
て
このような
「
寶
」
の
字
を
一切使
わなかったのは
、
事実
だと
思
います
。
唐代
の
「
開元通寳
」
という
通貨
は
、
現在
、
省略
して
「
開元銭
」
あるいは
「
通宝銭
」
と
̶ 3̶
俗称
しますが
、考古学者
にとっていま
一番困
ることは
、とりあえず
「
寳
」
を
省略
した
「
宝
」
の
字
を
、
よく
使用
することです
。
元々
の
「
寳
」
の
字
の
意味
がなくなるばかりでなく
、
特
に
日本
の
「
和同開珎
」
と
何
か
関係
があるのかどうかも
全
く
分
からなくなったのです
。
そ
れ
で
は
、
唐
代
の
通
貨
は
、
な
ぜ
「
開
元
通
寳
」
と
読
む
の
か
言
う
と
、「
開
元
」
と
は
、
初
め
て
銅
銭
を
発
行
し
た
と
い
う
「
新
紀
元
」、「
開
国
の
奠
基
さだめもと
」
の
意
を
も
ち
、「
通
寳
」
と
は
、
社
会
に
流
通
す
る
「
通
貨
」
の
意
を
表
わ
し
ま
す
。
換
言
す
れ
ば
、
唐
代
の
「
開
元
通
寳
」
は
、「
銭
」
を
以
って
「
寳
」
と
為
す
「
貨幣
」
のシンボルと
言
えるでしょう
。
ま
た
、「
開
元
通
寳
」
の
材
質
か
ら
見
る
と
、
銅
幣
以
外
に
、
金
幣
・
銀
幣
・
玳
瑁
たい
もん
幣
・
紙
幣
・
泥
幣
があります
。
しかし
、
金幣
と
銀幣
の
「
開元通寳
」
は
、
流通
する
貨幣
ではなく
、
主
に
皇
家
の
賞
賜
しょう
し
あるいは
達官顕貴
の
観賞用
となるものです
。ゆえに
銅幣
が
重要
な
流通貨幣
です
。
法門寺出土
の
一三枚
の
玳瑁幣
は
、貨幣
よりもむしろ
祭祀品
だと
思
います
。
いわゆる
紙幣
・
泥幣
は
墓
の
「
冥銭
」
です
。
日本
の
学界
における
、
今
までの
「
和同通珎
」
に
関
する
研究
に
は
、
私
の
知
る
限
り
、
少
なくとも
六
つの
誤
りが
存在
しています
。
1
「和同」の意味
「
和同
」
について
、日本
の
研究者
の
研究
によれば
、
和やまと
」
という
国
がはじめて
「
同
」
「
(
銅)
̶ 4̶
で
銅銭
を
鋳造
したとする
解釈
が
昔
から
存在
している
。
このような
解釈
はずいぶん
間違
っ
て
い
る
と
、
私
は
思
い
ま
す
。
な
ぜ
か
と
い
う
と
、「
和
同
」
の
「
同
」
は
、
す
な
わ
ち
「
銅
」
の
異
体
字
で
す
。「
和
同
」
と
は
、「
和
銅
」
と
い
う
年
号
を
表
わ
し
た
も
の
で
す
。「
和
銅
元
年
」
と
は
、
西暦七
〇
八年
ということです
。
2
「和同開珎」の読み方
私
の
研
究
に
よ
れ
ば
、「
開
珎
かい
ほう
」
は
、
上
述
の
通
り
、
唐
代
の
「
開
元
通
寳
かい
げん
つう
ほう
」
の
省
略
だ
っ
た
と
思
います
。「
珎ほう
」
という
字
は
、実際
、中国
の
漢字
である
「
寳ほう
」
の
真
ん
中
の
部分
だけをとって
、
日本古代人
が
自
ら
造
った
国字
になったはずです
。
ですから
、
この
「
珎
」
の
字
の
読
み
方
は
「
珎ちん
」
ではなく
、 「
珎ほう
」
の
方
が
正
しいと
思
います。
「
珎ちん
」
とは
、めずらしいという
意味
です
。
「
珎ほう
」
こそが
、
寳たから
の
本意
です。
3
「和同開珎」の原像
「
和
同
開
珎
」
は
、
実
際
に
は
「
和
銅
開
寳
」
と
書
く
べ
き
で
す
が
、
日
本
古
代
人
が
唐
の
「
開
元
通
寳
」
を
あ
る
程
度
変
え
る
た
め
に
、「
和
同
開
珎
」
と
い
う
形
に
し
た
と
、
私
は
思
い
ま
す
。
皆
様
はどのように
思
われますか
。
̶ 5̶
4
「和同開珎」の省略と「貝」
「
和同開珎
」
の
「
珎
」
は
、「
貝
」
を
省略
するのが
、
少
し
省略
しすぎとか
変
えすぎだと
思
います
。
ご
承知
の
通
り
、「
通寳
」
とは
、
流通
する
「
通貨
」
の
意
を
表
わします
。
古代
の
「
通
貨
」
は
、
いまの
言葉
で
言
いますと
、「
貨幣
」
です
。
ここで
注意
すべきことは
、「
通貨
」
と
「
貨幣
」
は
、
いずれも
「
貝
」
という
部分
をもつ
点
です
。「
通貨
」
の
歴史
をさかのぼります
と
、
やはり
「
貝
」
から
始
まったのです
。
だからこそ
、「
和同開珎
」
の
「
珎
」
は
、「
開元通
寳
」
の
「
寳
」
の
字
をある
程度変
えて
造
った
国字
の
「
珎
」
だと
、
私
は
思
います
。
い
ま
問
題
に
し
た
い
の
は
、「
和
同
開
珎
」
の
「
珎
」
の
字
が
、
私
の
見
た
と
こ
ろ
で
は
、
本
当
に
省
略
し
す
ぎ
、
変
え
す
ぎ
た
と
い
う
点
で
す
。「
貝
」
を
も
た
な
い
「
珎
」
は
、
納
得
で
き
な
い
と
い
うよりもむしろ
貨幣
にならないと
言
えます
。
5
「和同開珎」の模倣原型
七
〇
八年
に
発行
された
「
和同開珎
」
の
読
み
方
は
、
時計回
りに
読
むのですが
、
唐
の
「
開
元通寳
」
の
上
から
下
・
右
・
左
へと
読
む
読
み
方
に
比
べると
、
随分
と
違
っています
。
私
の
最
新
の
研
究
に
よ
り
ま
す
と
、「
和
銅
」
元
年
(
七
〇
八
)
に
「
和
同
開
珎
」
を
鋳
造
し
た
時
、
お
そ
ら
く
乾封元年
(
六六六
)
夏四月
、
高宗李治
が
泰山
に
登
る
「
封禅
」
を
記念
として
「
乾封
」
年
̶ 6̶ ̶6̶
号
を
も
っ
て
鋳
造
し
た
「
乾
封
泉
寳
」(
こ
の
貨
幣
は
、
わ
ず
か
に
八
ヵ
月
だ
け
流
通
し
た
と
い
う
)
を
参考
にしながら
、
主
に
「
開元通寳
」
を
省略
した
「
開寳
」
の
「
寳
」
の
字
の
真
ん
中
の
部分
だけを
模倣
して
鋳造
した
「
和同開珎
」
ではないかと
思
います
。
もちろん
唐肅宗李亨乾元
元
年
(
七
五
八
)
に
鋳
造
さ
れ
た
「
乾
元
重
寳
」
は
、「
開
元
通
寳
」
の
読
み
方
に
戻
っ
た
の
で
、
日
本
の
「
和
同
開
珎
」
は
、「
開
元
通
寳
」
と
「
乾
元
重
寳
」
を
模
倣
し
た
以
外
の
可
能
性
は
な
い
と
言
えます
。
6
「和同開珎」の「開」
「
和同開珎
」
の
「
開
」
の
字
は
、
研究
すべき
問題
です
。
この
「
開
」
の
字
は
、「
開元通寳
」
の
「
開
」
の
字
と
比
べれば
、
違
いはないと
思
います
。
これは
、
模倣
の
証拠
の
一
つとする
私
の
最新研究
です
。
二、
「井真成墓誌」の発見と最新研究
井
真
成
せい
しん
せい
は
、
唐時代
の
日本
からの
留学生
です
。
六九九年
に
生
まれ
、
七三四年
に
僅
かに
三
六歳
で
亡
くなったという
人物
です
。
その
墓誌
は
、
四年前
の
二
〇〇
四年四月頃
、
陝西省
の
̶ 7̶
図1 唐武徳四年(六二一)に鋳造
した金「開元通寳」
図2 和銅元年(七〇八)に鋳造し
た金「和同開珎」
図3 唐乾封元年(六六六)に鋳造
した「乾封泉寳」銅銭
図4 唐乾元元年(七五八)に鋳造
した「乾元重寳」銅銭
̶ 8̶
ある
建築会社
が
西安市
の
東郊外
においてショベルカーで
不法工事
をしていた
時
、
偶然
に
見
つかった
墓誌
です
。
この
墓誌
を
発見
してから
今
に
至
るまで
、
既
に
四年
が
経過
したので
すが
、
その
研究
の
必要性
はますます
高
まっていると
言
えます
。
二
〇〇
五年
の
一月二八日
と
二九日
、
専修大学
・
西北大学共同
プロジェクトによる
東京
朝日
ホールでのシンポジウムには
、
二五
〇〇
人
が
応募
しました
。
このような
大
きな
会場
はありませんので
、
仕方
なく
抽選
にいたしました
。
二
〇〇
七年
の
十月二七日
と
二八日
に
は
、
第二回遣唐使
シンポジウムを
行
ないました
。
私
も
講演
をいたしました
。
未解決
の
問
題
はまだまだあると
思
います
。
1
井真成墓誌発見の経緯
先
に
述
べたように
、
四年前
の
二
〇〇
四年四月頃
、
陝西省
のある
建築会社
が
西安市
の
東
郊外
で
不法工事
をしていた
時
、
偶然
に
長安
で
死去
した
日本留学生
の
井真成
という
人物
の
墓誌蓋
と
墓誌銘
を
掘
り
出
し
、
すぐ
民間
の
文物市場
に
秘密裏
に
売
り
出
しました
。
その
際
、
西北大学歴史博物館
の
副館長賈麦明氏
は
、
この
情報
を
聞
いて
、
早速
この
文物市場
へ
見
に
行
きました
。
特
に
墓誌銘
に
陰刻
されている
「
公姓井
、
字真成
。
國号日本
」
に
注目
すると
同時
に
、
私
̶ 9̶
図5 井真成墓誌 王維坤提供 上 墓誌蓋 下 墓誌銘
図6 西北大学歴史博物館副館長賈麦明氏 北京『新京報』より
̶ 10̶
図7 井真成墓誌蓋の写真 王維坤提供
贈
尚
衣
奉
御
井
府
君
墓
誌
之
銘
図8 井真成墓誌銘の写真 王維坤提供
國
号
日
本
̶ 11̶
図9 井真成墓誌蓋の拓本写真 王維坤提供
図10 井真成墓誌銘の拓本写真 王維坤提供
̶ 12̶
図11 2004-10-10 日中友好協会会長平山郁夫先生は井真成
墓誌の初公開式に出席 王維坤提供
図12 2004-2-4に筆者は圀勝寺檀家総代渡邉捷平先生(右)・
元同志社大学施設部長松浦靖先生(左)のご案内で圀
勝寺を見学、骨蔵器が出土した下道氏墓域の入口にて
王維坤提供
̶ 13̶
図13 圀勝寺「国宝」に指定されている吉備真備の祖母骨
蔵器の実物写真 王維坤提供
図14 圀勝寺「国宝」に指定されている吉備真備の祖母骨
蔵器蓋の銘文 王維坤提供
̶ 14̶
の
所
へ
電話
で
連絡
してくれましたので
、
すぐ
「
井真成
という
日本人留学生
を
含
む
遣唐使
墓誌
の
発見
は
初
めてであるばかりでなく
、
日本
という
国号
も
墓誌
に
初
めて
出
てきたもの
です
。
ですから
絶対
に
研究価値
と
文物価値
があります
。
よければ
、急
いで
買
いましょう
」
とすすめました
。
賈氏
も
勿論
、
この
墓誌自体
の
価値
をよく
知
っていたので
、
交渉
した
結
果
、
この
墓誌
を
信
じられないほどの
安価
で
購入
できたのです
。
井真成墓誌
は
、
以上
に
述
べたように
、
ショベルカーによる
不法工事
で
掘
り
出
したもの
です
。
その
墓
はすっかり
破壊
されてしまいました
。
これは
非常
に
残念
なことですが
、
幸
いに
墓誌
という
国宝級
の
文物
が
残留
したのです
。
この
墓誌
は
、
いま
単
に
西北大学歴史博物館
に
収蔵
・
陳列
されている
文物
の
一
つである
だけでなく
、
大学
の
「
館
を
鎮
める
宝
」
という
文物
になったと
言
えます
。
このようなレベ
ルの
墓誌
がもし
日本
で
出土
すれば
、
間違
いなく
「
国宝
」
になるでしょう
。
中国
には
、「
水
を
飲
む
時
は
源
を
考
える
」
という
諺
があります
。
だからこそ
、
私
たちが
井真成墓誌
を
研究
する
時
には
、
賈氏
の
功労
を
忘
れてはいけないと
、
私
は
堅
く
信
じています
。
この
墓誌
は
、
いうまでもなく
中国
における
在唐
の
日本人
の
墓誌
の
初発見
ですので
、
た
ちまち
中日
の
学界
から
注目
を
集
めました
。
具体的
に
言
えば
、二
〇〇
四年十月十日
の
午後
、
西北大学
は
、
陝西歴史博物館
で
『
首次発現唐代日本留学生墓誌新聞発布会
』
を
開催
し
、
̶ 15̶
日中友好協会会長平山郁夫氏
は
井真成墓誌
の
初公開式
に
出席
されました
。
その
後
、
西北
大学文博学院
もまた
数十人
の
中日
の
著名
な
専門家
を
招待
して
、
同年
の
十二月十八日
、
十
九日
に
学院
の
会議室
で
『
中古時期中外文化交流学術研討会
』
を
開
きました
。
この
討論会
では
、
諸先生
からの
積極的
な
発言
を
受
け
、
いろいろな
立場
から
井真成墓誌
をめぐる
諸問
題
を
検討
しました
。
2
井真成と「贈尚衣奉御」の性格
「
尚衣奉御
」
という
官職
は
、
隋唐時期
の
「
尚衣局
」
の
下
の
一種
の
職事官
でありました
。
同時
に
「
六尚
」
という
職事官
の
一
つでもありました
。「
六尚
」
とは
、即
ち
「
尚食奉御
」「
尚
薬奉御
」「
尚衣奉御
」「
尚舎奉御
」「
尚車奉御
」「
尚輦奉御
」
を
言
い
、
その
三番目
の
位置
に
あって
、
かなり
権力
があった
官職
と
言
えます
。
李隆基撰
、
李林甫注
の
『
大唐六典
』
巻一
一
の
記
載
に
よ
る
と
、「
尚
衣
局
、
奉
御
二
人
、
従
五
品
上
な
り
。
……
隋
の
門
下
省
に
御
府
局
監
二
人有
り
。
大業三年
(
六
〇
七
)、
分
かたれて
殿内省
に
属
す
。
其
の
後又改
めて
尚衣局
と
為
し
、
皇朝
は
之
に
因
る
。
龍朔二年
(
六六二
)、
改
めて
奉冕大夫
と
為
し
、
咸亨元年
(
六七
〇
)、
旧
に
復
す
。……
尚衣奉御
は
、
天子
の
衣服
を
供
するを
掌
る
。
其
の
制度
を
詳
らかにし
、
其
の
名
数
を
辨
じ
、
而
し
て
其
の
進
御
に
供
す
」
と
あ
り
ま
す
。
こ
の
こ
と
か
ら
、「
尚
衣
奉
御
」
の
主
な
責
̶ 16̶
務
は
、 「
天子
の
衣服
を
供
するを
掌
る
」ことであるということがよくわかりました
。
しかし
、
「
贈
尚
衣
奉
御
」
か
ら
見
る
と
、
井
真
成
が
生
前
に
こ
の
役
人
に
な
っ
た
の
で
は
な
く
、
死
後
に
贈
ら
れた
一種
の
栄誉官職
であったことは
明
らかです
。
注目
に
値
することは
、
唐玄宗
の
李隆基
の
摂政期間
(
七一二
〜
七五六
)
に
、「
尚衣奉御
」
の
任用制度
が
、
以前
と
比
べて
大
きな
変化
をしたことです
。
例
えば
、
唐玄宗
の
三
〇
人
の
息
子
の
中
で
、「
尚
衣
奉
御
」
に
な
っ
た
皇
子
は
一
人
も
い
な
か
っ
た
の
で
す
。
そ
の
時
、
皇
后
の
妹
夫
である
長孫昕
が
、
なんとこの
「
尚衣奉御
」
という
席
に
座
っていたので
、
皇子
を
含
む
皇室
貴族
が
昇進
して
「
尚衣奉御
」
の
官職
に
就
くことがいつの
間
にか
厳
しくなっていたのです
。
このことから
見
れば
、
出身低微
の
下級官吏
が
、
唐玄宗
の
摂政期間
に
従五品上
の
「
尚衣奉
御
」
に
昇進
することはたいへん
難
しいのに
、
まして
井真成
は
日本
から
来
た
一人
の
留学生
でありました
。
もし
井真成
が
確
かに
七一七年
に
第九次
の
遣唐使団
に
随
って
入唐
していた
のであれば
、
七三四年
の
不慮
の
死亡
まで
、
彼
は
長安
に
一九年以上滞在
したことになりま
す
。
ここで
想像
すると
、
井真成
が
青年期
に
死去
したのでなければ
、
彼
は
結局何年
まで
長
安
に
滞
在
し
た
の
か?
最
終
的
に
は
唐
朝
の
ど
の
位
の
官
吏
に
ま
で
昇
進
し
た
の
か?
ひ
い
て
は
本
人
は
中
日
の
文
化
交
流
に
対
し
て
ど
の
く
ら
い
貢
献
し
た
の
か?
こ
れ
は
誰
に
も
推
測
で
き
な
い
こ
とでありましょう
。
ところで
、
私
の
考
えでは
、
少
なくとも
「
我
が
朝
の
学生
にして
名
を
唐
̶ 17̶
国
に
播
す
者
は
、
唯
だ
大
臣
(
吉
備
真
備
)
と
朝
衡
(
阿
倍
仲
麻
呂
)
と
の
二
人
の
み
」(
新
日
本
古
典文学大系
4
『
続日本紀四
』
岩波書店
、
一九九五年
)
という
二人
だけではなく
、
たぶん
井真成
を
考慮
する
可能性
があったであろうと
思
います
。
以上
に
述
べた
通
り
、
井真成
が
長安
に
滞在
した
期間
は
、
唐玄宗
の
李隆基
の
摂政期間
であ
っ
た
ば
か
り
で
な
く
、「
尚
衣
奉
御
」
の
官
職
に
昇
進
す
る
こ
と
が
最
も
困
難
な
特
殊
時
期
で
も
あ
り
ました
。
これにより
、
井真成
が
生前
に
一度
も
「
尚衣奉御
」
という
官職
に
上
れなかったこ
とは
、
決
して
彼
の
能力
の
問題
ではなく
、
当時
の
職位
に
空位
のなかったことが
原因
であっ
たと
、
私
は
考
えています
。
ここで
井真成
の
人柄
をあえて
推測
するならば
、
無名
の
日本人
留学生
の
井真成
は
、
その
死
に
対
して
唐玄宗
の
摂政
・
李隆基
に
悲痛
の
感
を
与
えると
同時
に
、
「
追
崇
す
る
に
典
有
り
」
と
い
う
唐
代
の
喪
葬
儀
礼
を
行
な
わ
せ
た
の
で
あ
り
ま
し
た
。
こ
の
よ
う
な
情况
は
唐玄宗
の
李隆基
が
井真成
の
生前
の
人柄
と
能力
を
高
く
評価
していたばかりか
、
二人
の
私下交往
(
上下
の
人間関係
)
もかなり
親密
であったことを
反映
していると
思
われます
。
更
に
言
えば
、
二人
の
間
のこのような
密接
な
関係
の
形成
は
、
井真成
の
一九年間
の
長安滞在
と
「
強学不倦
」
という
一生懸命
に
勉強
する
精神及
び
才能
のはなやかさと
関係
があったと
思
います
。
そうでないと
、
井真成墓誌
に
陰刻
されている
「
皇上
は
哀傷
し
、
追崇
するに
典
有
り
、
詔
して
、
尚衣奉御
を
贈
る
」
という
墓誌銘文
が
説明
できないと
考
えています
。
̶ 18̶
3
井真成という中国風の姓名
中日
の
学界
では
、
この
井真成
の
改名
について
、
いろいろな
見方
を
提言
したのでありま
す
。
帰
納
す
れ
ば
、
お
お
よ
そ
、「
井
上
説
」「
葛
(
藤
)
井
説
」「
唐
名
説
」
と
い
う
三
つ
の
学
説
に
なります
。
第一
の
学説
は
、
国学院大学教授鈴木靖民先生
が
提出
した
「
井上説
」
です
。
即
ち
、「『
井
』
という
中国姓
は
、
現在
の
大阪府藤井寺市一帯
を
本拠
とした
渡来系
の
『
井上
忌
寸
いみ
き
』
という
一族
ではないか
。
一族
の
中
でも
特
に
優秀
で
、
コネもあったのだろう
」
と
、
鈴木靖民氏
は
推測
されました
。
第二
の
学説
は
、奈良大学教授東野治之先生
が
提出
した
「
葛
(
藤
)
井説
」
です
。
つまり
、
「
た
だ
『
井
』
と
い
う
姓
は
、
日
本
姓
を
省
略
し
て
名
乗
っ
て
い
る
は
ず
だ
か
ら
、
こ
の
字
の
つ
く
氏
族
の
出身者
だったことは
分
かる
。
そこで
、
想起
されるのは
、
七世紀末
から
八世紀前半
に
かけて
、
遣唐使少録
、
遣新羅使
、
遣唐留学生
などを
輩出
した
葛井氏
の
存在
である
。
この
一族
は
渡来系
で
南河内
の
葛井寺付近
を
根拠地
とし
、
もと
白猪氏
といった
。
一族
の
中
に
古
くから
葛井
を
名乗
るものがあったらしく
、
和銅
ごろの
人
として
葛井諸会
が
、
白猪広成
と
ならんで
『
経国集
』
に
見
える
。
一族
には
広成
、
葛井大成
、
同清成
など
、
類似
の
名
をもつ
同世代人
がいるが
、
あるいは
真成
の
近親者
であろうか
。
もちろん
「
井
」
が
上
につく
氏
で
̶ 19̶
もよいが
、
葛井氏
のように
、
この
方面
で
活躍
する
人
は
出
ていない
」
と
、
東野治之氏
は
研
究
されました
。
第三
の
学説
は
、
実
は
、
私自身
が
提出
していた
「
唐名説
」
です
。
換言
すれば
、
井真成
と
いう
遣唐
の
日本人留学生
は
、
入唐
してから
、
中国風
の
「
唐名
」
に
改名
したと
、
私
は
推測
しています
。
私
の
見
たところでは
、
井真成
の
出身
は
、
結局
「
井上氏
」
の
出身
であろうが
、
それとも
「
葛
(
藤
)
井氏
」
の
出身
であろうが
、
私
は
、
上述
の
二
つの
推測
の
可能性
をまっ
たく
否定
はしないが
、
しかし
、
井真成
の
改姓
は
、
たぶん
「
井上
」
とも
「
葛
(
藤
)
井
」
と
も
直接
には
関連
がなさそうです
。
即
ち
、
鈴木靖民先生
の
見方
は
、「
井上
」
姓
の
下
の
「
上
」
をとるべきであり
、東野治之氏
の
見方
は
、これに
反
して
「
葛
(
藤
)
井
」
姓
の
上
の
「
葛
」(
藤)
をとるべきであります
。
この
点
から
分析
すれば
、
両者
の
改名
には
明
らかに
一定
の
規律
が
ありません
。
思
うに
、
井真成
の
名字
は
、
元々
の
名前
とは
関係
がなく
、
自
ら
「
唐名
」
に
改
名
したのであろうかと
、
私
は
推測
しました
。
実際
、
早
く
隋
の
煬帝
の
大業三年
(
六
〇
七)
には
、
隋
の
人々
が
遣隋使
の
名字
について
音訳
を
行
なっていたようです
。
例
えば
、
当時
、
隋
の
人
々
は
(
小
野
)
妹
子
イモ
コ
を
「
蘇
因
高
」
と
呼
び
、(
難
波
)
雄
成
ヨ
ナリ
を
「
乎
那
利
」
と
呼
ん
で
い
た
のです
。
汪向栄先生
と
夏応元先生
の
研究
によると
、
遣隋使
の
大使
の
「
蘇因高
」
という
名
前
は
、
妹
子
イモ
コ
の
日本語
の
音訳
であり
、「
乎那利
」
という
名前
は
、
雄
成
ヨ
ナリ
の
日本語
の
音訳
です
。
̶ 20̶
唐代
に
至
っても
、
遣唐使
・
留学生
・
学問僧
たちは
、
みずから
自分
の
名前
をつけるのに
熱
心
だったように
思
われています
。
例
えば
、阿倍仲麻呂
(
仲満
)
の
中国名
「
朝
(
晁
)
衡
」
は
、
彼
自
身
が
自
分
の
た
め
に
つ
け
た
も
の
で
す
。『
旧
唐
書
』
巻
一
一
九
上
「
東
夷
列
伝
」
の
記
載
に
よ
る
と
、「
其
の
偏
(
副
)
使
朝
臣
な
る
仲
満
は
、
中
国
の
風
を
慕
っ
て
、
因
っ
て
留
ま
り
去
ら
ず
、
姓
名
を
改
めて
朝衡
と
為
す
」
とあるのは
、
そのことです
。
こうしたことから
、
井真成
の
名前
は
、
古代
の
日本風
の
名字
でないとするならば
、
阿倍仲麻呂
の
状況
と
同
じく
、
彼自身
が
自
分
のために
改名
した
中国風
の
名字
―
―
井真成
だったと
推測
できるのであります
。これは
、
まさに
私
の
第三
の
「
唐名説
」
の
学説
の
証拠
であります
。
なお
、
一般的
に
言
えば
、
改名
はしやすいのですが
、
改姓
はかなり
難
しいのです
。
ここ
で
、
もう
一
つの
実例
を
挙
げたいと
思
います
。
私
は
、
二
〇〇
六年九月一五日
に
「
唐日本留学生井真成改名新証
」
という
論文
を
書
いて
『
中
国
文
物
報
』
に
掲
載
し
ま
し
た
。
私
の
見
た
資
料
の
限
り
で
は
、
唐
時
代
の
日
本
人
の
「
井
」
に
関
す
る
姓
は
、
い
ま
ま
で
に
二
つ
の
例
を
捜
す
こ
と
が
で
き
ま
し
た
。
井
真
成
以
外
に
、
も
う
一
人
「
井
俅
替
せい
きゅう
たい
」
と
い
う
人
物
が
存
在
し
た
の
で
す
。
こ
の
人
は
下
痢
の
た
め
唐
時
代
の
揚
州
で
死
亡
し
た
第一九次遣唐使船
の
船師佐伯金成
の
傔従
でありました
。
このことは
、
円仁
の
『
入唐求法
巡礼行記
』
の
唐開成三年
(
日本承和五年
、
西暦八三八年
)
八月十八日条
に
明
らかな
記載
̶ 21̶
を
残
していると
言
えます
。
ここで
注目
すべきは
、
井真成
や
井
俅
替
など
、
彼
らの
改名
は
、
何
れも
遣唐使
と
関係
があ
ったらしいことです
。
私
の
推測
が
間違
いなければ
、
二人
の
改名
は
、
たぶん
阿倍仲麻呂
の
状況
と
同
じように
、
入唐
してから
中国
の
唐名風
を
慕
って
、
自
ら
改名
したのであって
、
元々
日本風
の
名前
とは
関係
がなさそうに
思
います
。
これが
、
私
の
唐
の
日本人留学生井真成
の
改名
に
関
する
新証
でもあると
言
えます
。
実
は
、
今
に
至
るまで
、
この
三
つの
学説以外
に
、
また
別
の
学説
も
存在
しています
。
例
え
ば
、「
情真誠説
」「
九州王朝説
」「
和姓説
」
もあります
。
第四
の
学説
は
、
中日関係史学会副会長張雲方先生
が
提出
していた
「
情真誠説
」
です
。
つまり
、
彼
の
見
たところでは
、「『
井真成
』
は
、
この
日本人留学生
の
中国名
であり
、『
井
』
姓
はたぶん
唐
の
皇帝
から
賜
った
姓
だと
思
う
」
とあります
。
なお
、「
阿倍仲麻呂
の
『
朝衡
』
は
、
元
の
名前
と
関係
がない
。『
朝衡
』
には
、
実際
は
永遠
に
唐
の
朝
廷
を
拝
し
、
朝
貢
す
る
と
い
う
意
味
が
含
ま
れ
て
い
る
と
思
わ
れ
る
。『
井
真
成
』
も
ひ
ょ
っとすると
『
情真誠
』(「
情
」
と
「
井
」
は
中国語
の
発音
が
似
ている
)
という
意味
が
隠
され
て
い
る
の
か
も
知
れ
な
い
。
現
在
ま
で
の
と
こ
ろ
、
現
存
す
る
史
料
の
中
に
は
、『
井
真
成
』
と
い
う
名前
は
見
つかっていない
。
しかし
、
死亡
した
年
から
逆算
すると
、
生
まれた
年
は
六九九年
̶ 22̶
であることは
間違
いない
」
と
推測
しました
。
実
は
「
井真成
」
の
「
井
」
の
中国語
の
発音
は
「
jing 」
で
あ
り
、「
情
真
誠
」
の
「
情
」
の
中
国
語
の
発
音
は
「
qing 」
で
す
。
両
者
の
発
音
が
似
て
いるとは
言
えないと
思
います
。
その
上
、
中国
の
『
百家姓
』
の
中
に
「
情
」
姓
はなさそうで
す
。第五
の
学説
は
、
古田史学
の
会事務局長
の
古賀達也先生
が
提出
していた
「
九州王朝説
」
で
す
。
即
ち
、「
第
一
話
は
最
近
(
二
〇
〇
五
年
)
何
か
と
話
題
に
な
っ
て
い
る
『
井
真
成
いの
ま
なり
』
に
つ
い
てです
。
中国
で
発見
された
墓誌
により
『
井
』
さんが
遣唐使
として
中国
に
渡
り
、
当地
で
没
したことが
明
らかになったのですが
、
藤井
さんとか
○
井
さんとかが
日本名
の
候補
として
上
げ
ら
れ
て
い
る
よ
う
で
す
。
他
方
、『
井
』
と
い
う
姓
が
日
本
に
存
在
す
る
こ
と
か
ら
、
文
字
通
り
『
井せい
』
さ
ん
で
は
な
い
か
と
い
う
異
見
も
出
さ
れ
て
い
ま
す
。
古
田
先
生
も
こ
の
『
井
』
と
い
う
姓
に
注目
されています
。
電話帳
で
調
べた
結果
では
、
熊本県
に
圧倒的
に
濃密分布
しています
。
中
でも
産山村
・
南小国町
・
一
ノ
宮町
が
濃密
です
。
この
分布事実
は
九州王朝説
の
立場
から
も
大変注目
されるところです
」
と
述
べられています
。
第六
の
学説
は
、
日本
の
学界
の
諸先生
が
提出
していた
「
和姓説
」
です
。
つまり
、
日本
の
学会
では
、
和姓
の
一部
を
中国姓
としたとする
説
が
有力
になり
、
「
井
」
という
姓
をめぐって
、
元
の
和姓
について
、「
葛井
」、「
井上
」、「
白猪
」
などの
説
が
出
されました
。
また
、「
井真成
」
̶ 23̶
の
出身地
は
、
現在
の
藤井寺市
であると
確定的
に
報道
されています
。
さらに
、
墓誌里帰
り
運動
が
盛
り
上
がり
、
墓誌
は
愛知万博
で
公開
された
後
、
東京
↓
奈良
↓
九州
の
各国立博物館
で
の
展
示
後
、「
郷
里
」
藤
井
寺
市
へ
届
け
ら
れ
る
手
は
ず
に
な
っ
て
い
る
よ
う
で
す
。
こ
の
墓
誌
発
見
以
降
の
一
連
の
「
事
態
」
に
、
室
伏
志
畔
氏
(「
越
境
の
会
」
代
表
)
の
セ
ン
サ
ー
は
敏
感
に
反
応
し
ま
し
た
。
お
そ
ら
く
、「
井
真
成
」
問
題
の
「
向
こ
う
側
」
を
直
感
的
に
幻
視
し
た
の
で
し
ょ
う
。
氏
は
、
学会
やマスコミを
中心
とした
「
こちら
側
」
の
安易
な
歴史認識
に
憤
りを
覚
え
、
一
ヵ
月
のうちに
「
腕
と
人間
を
見込
んだ
」
八人
を
糾合
し
、
図書
『
和姓
に
井真成
を
奪回
せよ
』
を
出版
したのです
。
これはまさに
、
歴史認識
において
停滞
し
退廃
した
「
状況
」
に
対
する
抵
抗戦
であり
、
知的集団戦
でもあります
。
室伏氏
を
中心
とした
「
越境
の
会
」
の
主張
は
、
極
めて
明快
です
。
すなわち
、「
井真成
」
の
姓
「
井
」
は
、
中国姓
に
倣
って
一字姓
に
変
えた
「
井
(
=
セイ
)」
ではなく
、
和姓
の
一字姓
「
井
(
=
イイ
)」
であり
、「
井真成
」
は
(
イイマサナ
リ
)
という
名前
であったとするものです
。
それでは
、「
井
(
=
イイ
)」
姓
の
日本
における
分布
はどうなっているのか
。
本書第四章
の
白名一雄氏
の
調査
によると
、
非常
に
興味深
い
結
果
が
示
さ
れ
て
い
ま
す
。
全
国
の
「
井
(
=
イ
イ
)」
姓
の
約
半
数
は
熊
本
県
に
集
中
し
て
い
る
。
さらに
、
熊本県
の
中
でも
阿蘇郡
、
特
に
「
産山村
」
が
最
も
多
い
。
この
観点
からすると
、「
井
真成
」
の
故郷
は
藤井寺市
ではなく
、
熊本県阿蘇郡産山村
と
考
える
方
が
理
にかなうことに
̶ 24̶
な
る
。
こ
の
、
シ
ン
プ
ル
で
力
強
い
論
理
的
推
論
が
、「
井
真
成
」
問
題
に
お
け
る
「
越
境
の
会
」
の
論
の
根幹
です
。
日本
の
学会
やマスコミは
、なぜこのような
可能性
さえ
思
い
描
かないのか
。
本書
を
読
み
進
むうちに
、
そのような
思
いが
強
くなってくる
、
と
強調
しました
。
4
「日本」国号について
ここで
注目
すべきことは
、
井真成墓誌
に
初
めて
「
國号日本
」
ということが
出現
しまし
た
。「
日本
」
という
国号
は
、
今
までに
知
られている
中日
の
古代文献
の
記載
から
見
ますと
、
中国
で
出現
した
年代
は
日本
での
年代
よりやや
古
いのです
。
北宋
の
欧陽修
(
一
〇〇
七
〜
七
二
)・
宋祁
が