首页 日本文化讲义

日本文化讲义

举报
开通vip

日本文化讲义日本文化讲义 社会に見た日本人 ルース・ベネディクト(1887~1948)『菊と刀』1944年6月~1946年12月 1、 日本社会の階層制  ① 家庭层面 「日本人は誰でもまず家庭の内部で階層制度の習慣を学び、そこで学んだこ とを経済生活や政治などのもっと広い領域に適用する」(67ページ)  日本の家では、家父長が絶大な権力をもっており、また長男は兄弟姉妹のなかで特権的な地位を与えられているという。 ② 阶级层面  日本は天皇を頂点とし、賤民を最下層とするカースト制社会だ。日本人の生活の階層的組織は、階級間の...

日本文化讲义
日本文化讲义 社会に見た日本人 ルース・ベネディクト(1887~1948)『菊と刀』1944年6月~1946年12月 1、 日本社会の階層制  ① 家庭层面 「日本人は誰でもまず家庭の内部で階層 制度 关于办公室下班关闭电源制度矿山事故隐患举报和奖励制度制度下载人事管理制度doc盘点制度下载 の習慣を学び、そこで学んだこ とを経済生活や政治などのもっと広い領域に適用する」(67ページ)  日本の家では、家父長が絶大な権力をもっており、また長男は兄弟姉妹のなかで特権的な地位を与えられているという。 ② 阶级层面  日本は天皇を頂点とし、賤民を最下層とするカースト制社会だ。日本人の生活の階層的組織は、階級間の間柄においても、家庭の場合と同じように徹底的であった。皇室と宮廷貴族の下に、その身分の順に武士(サムライ)、農民、工人、商人の4つの日本のカストがあった。さらにこの下に賤民階級があった。(68-73ページ) ③ 个人行为层面 日常生活中,敬语的使用、礼节规矩不仅要考虑不同的等级身份,还要考虑到年龄、性别、家族关系以及以前交往情况等。  ④ 国家层面 2、 恩と恩返し いったん恩を受けると、日本人は「恩に着る」のであり、決して「恩を忘れない」とされる。もしこの債務を返済しない者がいるとしたら、それは「恩知らず」「恥知らず」であり、村八分に値する。 恩についての、もう一つ興味深い指摘は、 (日本人が)目上、あるいは少なくとも自分と同等であることの明らかな人間以外の人から恩を受ける行為は、不愉快な劣等感を与える(115ページ) というものだ。 日本人は、「恩着せがましい」行為を非常に嫌う。日本人は偶然に人から恩を受け、したがって返礼の負い目を背負い込むことを好まない。彼らは常に、「人に恩を着せる」ということを口にする。比較的縁の遠い人から、はからずも恩恵を蒙ることは、日本人の最も不快に感じるところである。近隣の人たちとの付き合いや、古くから定まった階層的関係においてならば、日本人は恩を受けることの煩雑さを承知しているし、また喜んでその煩雑さを引き受けてきた。ところが相手が単なる知人や、自分とほとんど対等の人間の場合には、心安からず思う。彼らはなるだけ、恩のさまざまな結果に巻き込まれることを避けたいのである。たとえ煙草一本もらっても、日本人は心苦しく思う。(120-121ページ) 「恩」は負債であって、いつかは返済すべきものだ。アメリカ人は恩(好意)に対して、「ありがとう」といい、多くの日本人は慣習的に「すみません」「かたじけない」など、婉曲な言葉遣いをしている。 3、 義理と人情 義理と似た概念に「義務」があるが、両者はどう違うのか?この点については、次のように述べられている。 「義務」とは、ある人に対して如何に多くの困難を要求するにしても、少なくとも、身近な肉親の世界の中で、また彼の祖国、彼の生活様式、彼の愛国心の象徴である天皇に対して負っている一群の義務である。それは生まれ落ちると同時に結ばれる強力なきずなのゆえに、人々が当然果たさねばならない義務である。それが「不本意なもの」と定義されることは決してない。(156ページ)  義理には「世間に対する義理」と「名に対する義理」の2種類があるという。  「世間に対する義理」とは、同輩に「恩」を返す義務であり、「名に対する義理」と呼ぶのは、ドイツ人の「名誉」のようなものであって、自分の名と名声とを他人からそしりを受けて汚さないようにする義務である。「義務」が生まれ落ちると同時に生じる親密な義務の履行であると感じられるのに対して、世間に対する「義理」は、おおざっぱにいえば、契約関係の履行ということができる。  具体例でいえば、肉親の母に対する恩返しの行いは、「義務」であって、「義理」ではない。これに対し、「義理の母」に対する義務は、「義理」である。「義務」はいわば「当たり前」のものであるのに対し、「義理」は受けた恩に報いなければならないという「負い目」であり、「つらいもの」「不本意なもの」だとされる。 「義理」を果たさなければならないのは、「もしそうしなければ、人々から『義理を知らぬ人間』と呼ばれ、世人の前で恥をかくことになるからである」、という。「義理」にどうしても従わなければならないのは、世間の沙汰が恐ろしいからである。(164ページ) 「義理」と「義務」(忠あるいは孝)とがしばしば衝突するという事実である。それは、かの「忠臣蔵」に典型的にみられる。 4、 「罪の文化」と「恥の文化」  簡単にいえば、世界の社会を人類学的にみると、「恥を基調とする文化」と「罪を基調とする文化」があり、日本は「恥の文化」、つまり、「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化である。ベネディクトの記述をもとに、恥の文化と罪の文化についての比較対照表をつくってみると、次のようになる。 罪 の 文 化 恥 の 文 化 社 会 観 道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会 他人の批評、「世間」の評価に気を配る社会 善行の動因 内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う 外面的強制力にもとづいて善行を行う 他者の存在 自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む 恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要 恥の位置づけ 道徳の基礎となる資格がないと考える すべての徳の基本と考える  現代の日本でも、「恥」は、日本人の道徳原理、行動の原動力として大きな要因となっていることは確かである。 森山樹三郎『「名」と「恥」の文化』 飯塚浩二『日本の軍隊』軍隊が家族主義的結合原理による社会である。 川島武宣『日本社会の家族的構成』 中根千枝(1926~)『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』(講談社現代新書 1967) 纵式社会的相关概念 1、 社会集団の構成要因─『資格』と『場』 資格:(个人的社会属性,如出身、性别、职务、职业等)社会的個人の属性をあらわす。この属性の共通性により集団が構成される。  例)職業、血縁、身分などの資格。インドなどに見られる。 場:(人们生活的空间)地域、所属など一定の枠によって集団が構成される。     例)○○村、○○会社、○○大学の成員など。日本に見られる。 日本人在缔结社会时对“场”的强调甚于对“资格”的强调,这是日本人集团最重要的一个特点。日本社会所有其他特点都可以说与这一特点有关。这两个概念也可以说是其理论的出发点。 2、 纵式关系与横式关系 日本强调“纵式关系”甚于“横式关系”,这是同日本人缔结集团时强调“场”的特点相一致的。 3、 序列意识 序列是一种比身份、地位更加细致地区分,即使在相同身份、地位和资格的人之间,也依据一定 标准 excel标准偏差excel标准偏差函数exl标准差函数国标检验抽样标准表免费下载红头文件格式标准下载 形成京戏的等级序列。 同一集団内、同一資格保持者間でも『差』の設定が存在することによって精緻な序列が形成される。この傾向が強いため、日本では能力制ではなく序列制に比重がおかれる。この序列制は終身雇用制と密接関係にあり、根底に能力平等主義が存在する。 纵式社会的若干特征 1、 个人与集团的关系 (1) 强调纵式关系,人为排出序列(等级)。“资格型”集团成员依靠遵守明确的规则凝聚在一起;而“场所型”集团成员则通过强调“纵式”关系,明确排列每个成员的上下位置凝聚在一起。“亲分”、“子分”是纵式社会中最典型的形式。 日本ではあらゆる層において同類集団ができない。これがさらにタテ関係を強くし、ヨコ関係を弱くする。同類は互いに敵であり、個人は同類の中では孤独である。 (2) 集团具有开放性。集团的缔结重视“场所”而不是重视“资格”,不同资格者都能加入。在“场所型”集团中,面对面的直接接触具有特别的重要性。当个人离开他活动的“场所”以后,人际关系很快趋于冷淡。日本社会中人际关系的亲疏程度,往往与接触时间的长短以及频率成正比。 (3) 强调和的精神 2、 领导与集团的关系 リーダーには個人の能力が重視されるのではなく、人間的な情、包容力が重視される。そのため、リーダーには年長者がつくことが多い。リーダーよりも内部事情が集団の実力を表しているのでいかに集団の力を発揮させるかに比重がおかれる。 日本的リーダーは目的達成が重要ではなく、人間関係の和を保つことがその存在理由である。 西尾幹二『ヨーロッパの個人主義』 荒木博之『日本人の行動様式』 G・クラーク『日本人』 桑原武夫・梅悼忠夫『日本三大都市比較論』 東京人   権威主義(有名店で買い物をしたがる。大学といえばまず東大法学部)   きれいな金使い(節約・貯蓄は美徳ではない。買うことを決めてから値段を聞く)   臨機応変(決断にぐずぐずしない。長期にわたり人生の設計がない。) 大阪人   実質主義 ことばに見た日本人 1、金田一春彦『日本人の言語表現』 日本人は一般に議論をするのを楽しまない。意見が対立することを喜ばないことと関係があるようだ。  よく納得のいかない非論理なことを言い、言われた人はそれで平気でいる。「どうして」が「いかに」と「なぜ」の二つのの意味に使われ、「ために」が原因と目的の両方に使われるのは、日本語の、したがって日本人の非論理性を表している。  意見を述べる必要に迫られたとき日本人は理性ではなく感情に訴える傾向がつよい。  話のやりとりに面子(メンツ)が重要な役割をもってくる。  頼るべきは先例だ、という日本人の論理は昔も今も同じだ。  感謝の心がなくても「毎度ありがとうございます」という風の非合理な形式主義がはなはだ多い。 2、芳賀綏(はがやすし)『国語と国民性』  日本人像を形成する特性の一つが「おだやか」であったが、それがまず見られるのは日本人の自然に対する態度においてである。「自然のフトコロに抱かれる」は日本人好みの表現であり、まさに人と自然との融合・調和を表している。  運命に対しても日本人はおだやかな態度をとり、しつこく(執念深い)立ちはだかるのではなく流れのままに、ヤムヲエヌとアキラメがよい。そこに淡白という個性も指摘できる。  上記の自然への態度と深く結ばり合っている特性に直観的というのがある。流れのままだから対立し、 分析 定性数据统计分析pdf销售业绩分析模板建筑结构震害分析销售进度分析表京东商城竞争战略分析 し、カチッと正確にというのではなく、ソノウチ、適当ニ、チョッとなどぼんやりした表現をとりやすい。そういう表現に対しカン(勘)が働いて理解に達する。「泣き面に蜂」、「青菜(アオナ)に塩」、「目がない」など具象・感覚的表現が多いのも、ことば多くやりとりしないのも直観的把握というつよい心的傾性に根付いている現象である。  由来美意識に富んだ日本人は、右の心的傾性によって特有の美的表現法をとる。すなわち点描(テンビョウ)である。ことば数を切り詰めた和歌・俳句のような芸術の発生はこれに関係がある。「侘び」、「寂び」、「渋み」もおしゃべりでないことにつながりがある。  こういった特色は武ばった男性の側のものとはいえない。日本人が「女性的」といわれたことがある所以(ユエン)である。ハートを重んじ感傷的であること、理詰(リヅメ)を嫌うことも述べてきた特色に結合した当然の傾向であり、まさに女性的であり、往々内気である。これを一般化して心情主義と言おう。ナニワブシ(浪花節。義理人情を考えや行動の中心におく。)的解釈とか「何もありませんが……」のような多くの客人向けの形式用語がそれを表している。 私小説 風たちぬ   いきおい(自然の結果として)他人への気クバリ、心ヅカイがつよく、よくいけば思いやりの美徳になり、悪くなると「みえ」「引け目」の意識が強くなる。称して他人志向の傾向と言おう。  気配り表現「ね、なるほど、やはり」 3、堀川直義『話しことばにおける日本人の論理』「非断定」「回避」  「あまりにも断定的に過ぎるのを煮の日本人は好まない。「……である」の代りに「……と言える」といい、更に柔らげて「……といえなくもない」というのである。ひどいのになると「不賛成でないということでもなくはない」と四重否定の表現さえ出てくる。普通、「であろう」「かもしれない」「と見てもよい」「と思われる」「かも知れないと考えられている」「と言ってよいのではないかと思われる」「おなかがすいたようよ」「なにか食べたいようよ(黒柳徹子)」 ぼかし表現「コーヒーでも飲みませんか」 彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。她准备一个人去看电影,我正要去神口逛书店。 買い物の時に「○○円からお預かりします」 「お荷物のほう、お預かりします」(普通は「お荷物、お預かりします」)「鈴木さんと話とかしてました」(同「鈴木さんと話をしてました」)「わたし的にはそう思います」(同「わたしはそう思います」)「とても良かったかな、みたいな……」(同「とても良かった」)「やっぱり帰ることにします、うん」(同「やっぱり帰ることにします」)  回避は、国会答弁などでよく見られる、あいまいに言って責任を避ける言い回しである、と。  非断定は柔らかく言うため、回避は責任逃れのためというけれども、断定しない形をとることによってきっぱり責任をとるということにはならない点もあって、非断定には二つの機能があるようである。  「自慢じゃないが」「私のことを申してなんですが」のようないいわけを日本人は頻繁にやる。これも日本人の特徴であろう。思うに、これは自分を卑下(ヒゲ)し、へりくだるという日本人の対人的な特徴を表している。 上の「いいわけ」についてであるが、社交場ではしきりに謙虚的いいわけをするが、しかし仕事上のことになるとたちまちいいわけ嫌いになり、ことあげしないのを男らしいとする風がある、と。  4、板坂元『日本人の論理構造』自発的・感性的 「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボートレールにもしかない」「吾が身じゃないが」「恐れ多くも天皇陛下には……」「かしこくも天皇陛下におかせられましては……」「言っちゃあ悪いけど、あの人は馬鹿ね」「自慢じゃないが、これでも昔は投手で四番を打っていた」「言わないことじゃない、本当に雨が降ってしまった」「こんなことをいえた柄じゃないんですが」「お言葉を返すようですが……」などのように、いいわけのことばとしてあげている語句は、感情を傷つけることを前もって避ける気持ちがある。 「来月結婚することになりました」は好んで言う言い方であり、「結婚します」よりは丁寧にさえなる。「する」より「なる」を使う傾向の強い。 また、日本人が元来、他動詞的表現より自動詞的表現を好む。例えば、亭主が家に帰って、奥さんがお風呂の支度を終えると、「お風呂が沸きました」と言う。また、「私には妻があります(を持っている)」「お茶が入りました」「ご飯ができました」 「昨晩家事で家が三軒焼けたそうだ(Х昨晩の火事は家を三軒焼いたそうだ)」 「姉に男の子が生まれました(Х姉が男の子を産んだ)」 要するに、日本語は自己の判断をむき出しにした断定の形を避けて自然的経過の中で自分の意見が醸成されたという風に意見を述べる自発型の言語表現であり、文学的作品・言語表現・生活行動に日本人の感性的特色が見られる。 5、荒木博之『日本語から日本人を考える』自発的・集団的  「する」を「なる」に言い換える好み、「なる」の論理をよしとする“自発”の尊重、それらが日本人の集団論理依存と関係がると考える。 J・ハルペン『不思議な日本語 不思議な日本人』あいまい・場面依存 あいまいということは、言語の上でだけでなく、日本人の生活、言動、態度のほとんどすべてに見られる。そして淡白であっさりした味、目立たない色合い、調和を重んじる配慮、侘び・さびを好む心、これらはすべてあいまいさにつながる。 6、渡部昇一『日本語のこころ』 7、鈴木孝夫『ことばと文化』 「人を表すことば(人称代名詞の使用・)」 8、H・パッシン『遠慮と貪欲(ドンヨク)』  日本人が遠慮がちであるが、貪欲といえるほど外来のものを取り込む。  上述した「いいわけ(へりくだる)」は遠慮と紙一重の心理であろう。へりくだるの反対は、高ぶるないし驕るであるから、無遠慮な物言いは高ぶる心から出るといえる。そのおごり高ぶるのを日本人は嫌悪するが、ひとえに遠慮する心を持つようになった。 電車が遅れているようだけれども、もうそろそろ来るでしょう。 こころに見た日本人 南博『日本人の心理』 高木正孝『日本人の生活心理』 宮城音弥『日本人の性格』依田新・築島謙三『日本人の性格』 桂広介『日本美の心理』 会田雄二『日本人の意識構造』 土居健郎『「甘え」の構造』 鶴見和子『好奇心と日本人』 井上忠司『「世間体」の構造』 比較文化に見た日本人 笠信太郎『ものの見方』 錆田豊之『日本を見なおす』 大野盛雄『ラテン的日本人』 犬養道子『私のヨーロッパ』 鳥羽欽一郎『二つの顔の日本人』 築島謙三『日本人を考える』 P・ランディ『ニッポン人の生活』 根本長兵衛『小さい目のフランス日記』 石田英一郎『東西抄』 川野重任『在日外国人学生』 戴天仇『日本論』 日本語から見た日本人 ―日本人は「集団主義的」か― 廣瀬幸生・長谷川葉子 http://ist-socrates.berkeley.edu/~hasegawa/Papers/Groupism.pdf 1.はじめに 日本人は集団主義的である、というのが日本文化論において日本人を特徴づける最も顕著な見方である。この見地から、日本人は自我意識に欠けるとか、日本社会は対立を避け和を尊ぶといった考え方も生じる。この集団主義の見方は、文化人類学・社会学・社会心理学を始めとして多くの分野における日本研究に現われる(南1994 、杉本・ロス1995 などを参照)。日本語の言語文化研究もその例外ではなく、日本語は集団主義と不可分の関係にある「ウチ・ソト」の概念によって特徴づけられるとする研究もある(Bachnik and Quinn 1994 、牧野1996 など)。 このような日本文化論は、よく知られているように、日本人・日本社会は特殊であり異質だという神話を生み出し、多くの日本人もまた、それを盲目的に信じ込んできたきらいがある。しかし近年(特に80 年代以降)、文化人類学や社会学などの分野で日本文化論が再考され、いわゆる日本特殊論あるいは日本異質論に対して批判を加える研究が発表されている(ベフ1987 、杉本・ロス1995 、濱口1996 、青木1999 など)。1 本稿では、言語研究の立場から、個の欠如とまで言われる日本人の集団性を検討し、そのような集団モデルは日本語の本質的特徴とは相容れないことを明らかにする。もちろん、集団性を示唆すると思える現象が日本語に多いことは否定できないが、本稿で論じる重要な点は、そのような現象の背後に、実は、英語などの西洋語以上に、個の意識に根ざした言語体系が存在するということである。2 本稿の構成は次の通りである。まず第2 節で社会・文化モデルと言語との一般的な関係について述べ、第3 節で、日本人に関する集団モデルとそれに基づく相対的で流動的な自己という考え方を、それを動機づけるとされる言語現象とともに概観する。 1さらにまた、Yoshino (1992) や吉野 (1997) のように、日本特殊論批判にも検討を加える論考もある。 2本稿は、廣瀬 (1997)、Hasegawa (1998, 1999a)、Hirose (1999) で行った考察を統一的な観点から統合・発展させたものである。 第4 節と第5 節では、集団モデルでの「ウチに同化する相対的な自己」という概念を批判的に検討し、特に心理述語に関する現象を考察することで、日本語においても、ウチに同化しない絶対的な自己を想定しなければならないことを示す。その絶対的な自己とは、言語主体としての自己であり、その意味で普遍的な概念である。第6 節では、この普遍的な言語主体としての自己には二つの側面があることを見る。一つは伝達の主体としての「公的自己」という側面であり、もう一つは思考・意識の主体としての「私的自己」という側面である。公的自己は意思を伝達しようとすることで他者にかかわる社会的な存在であり、一方、私的自己は他者へのかかわりを意図しない個人的な存在である。第7 節と第8 節では、英語のような西洋語は公的自己を中心とした体系であるのに対し、日本語は、より本質的な部分では、私的自己を中心とした体系であるということを論じる。そしてそこから浮かび上がる日本人像は、集団モデルが描くものとは正反対の、内的な自己意識に基づく極めて個人的な存在であることを見る。 2.社会・文化モデルと言語の関係 呼びかけ語、親族指示語、敬語など、ある種の言語現象は、その言語社会の構造を理解しなければ記述・説明することはできない。人類学・民族誌学・社会学などの研究者は社会構造のモデルを提唱する際に、当該社会の言語的特徴をその根拠とすることが多々ある。また一方、言語研究者は言語の構造を記述・説明する際にそれらのモデルを借用することが多い。つまり、社会と言語の研究は相互依存の関係にあり、日本語は、その意味で、最も広範に研究されている言語の一つと言えるだろう。 一般に、社会・文化モデルというのは、例えば、戦後の進駐軍による日本統治、60年代における日本の急激な経済成長の理解、80 年代の日米貿易不均衡の是正といった例に見られるように、通常、一定の目的をもって構築されるものである。さらに、それらのモデルは、元来、一種のイデオロギーであるため、種々の個別的特性を抽象化の過程で切り捨てていくのもやむを得ないことである。したがって、各モデルの妥当性はその目的との関係において判断されるものであり、言語現象のある一部だけを選択的に使用することは必ずしも非難されるべきことではない。しかし、それらの社会モデルが当初の目的以外にまで拡大使用されるようになると、言語全体の構造を見ずにその一部だけを取り上げることは、歪められた言語社会像を描き出す危険性をはらむことになる。したがって、このような場合は言語データの慎重な検討が必要となる。 3.集団モデルと自己の流動性 日本社会は、集団主義と状況依存性 (contextualism) とによって特徴づけられることが多い。ここでいう集団主義とは個人主義に相対するもので、自己の意識は個人の中にあるのではなく、集団帰属によって生まれ、集団構成員はそういう状態を甘受し、帰属集団の目的には滅私の忠誠心をもち、したがって、集団内での争いは起こらないという考え方である (Yoshino 1992:19)。一方、状況依存性とは、自己意識さえ状況や他者によって規定されるという性質である。 日本人の集団帰属意識の強さを示す一例として、中根 (1967) は、日本人は自己紹介の際、心理学専攻とかエンジニアといった個人の資格ではなく、その人が属する場、すなわち大学とか会社とかいう枠を優先するという。さらに集団モデルでは、1946年のルース・ベネディクトの『菊と刀』以来、日本は、支配者階級対労働者階級やカースト制といった階級的資格に基づく「ヨコ社会」ではなく、集団間または集団内での庇護者的上役とそれに忠実に従う者との序列意識に基づく「タテ社会」と特徴づけられることが多い (中根1967)。 このタテ社会の基盤をなすのが、日本人の特性とされる「甘え」の心理であるとの指摘もある (土居1971)。甘えとは、「乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めること」 (土居1971:81) をいう。この母親への依存性と平行的な関係が成人後も社会集団内で育まれ、部下は子供の役を負い、上司に依存する。一方、上司は親の役で、部下に対しての寛容さを期待される (Yoshino 1992:18) というわけである。 さて、集団モデルで欠くことのできないものに、「ウチ」という概念がある。ウチとは自己が帰属する集団的領域であり、その領域外は「ソト」(もしくは「ヨソ」)である。後で見るように、ウチ・ソトに特徴的なのは、その境界が流動的で一定しておらず、状況に応じて変わるという点であり、この二つの対立概念こそが日本語・日本社会を真に理解する鍵となるという研究者もいる (Bachnik 1994, Wetzel 1994 など)。可変的なウチ・ソトに対応して、ウチに属する自己の意識も流動性を帯び、状況によって相対的に規定され、絶えず変化すると捉えられることになる (荒木1973 )。 このような流動的自己意識をもたらす集団モデルを動機づける根拠として、日本語の特徴である、人称代名詞の欠如、呼びかけ語や親族指示語、授受動詞、敬語等の言語現象が頻繁に利用される。 日本語には、西洋語の人称代名詞に対応する語が存在しないと言われる (例えば、鈴木1973)。特に、一人称代名詞の欠如は、西洋語の話者には簡単には理解できない事象であると言える。例えば、日本語では、大人が子供に話しかける場合、大人は自分のことを「おじさん・おばさん」などと呼び、学校の教師は、自分のことを「先生」と呼ぶというような現象である。西洋語は個の基点としての一人称代名詞をなしですますことは考えられないし、さらに、主語を省略し難い英語のような言語から見れば、Iを省くことが通常である日本語の話者は、個としての自我意識に欠けるという考え方さえ出てくる(木村1972 、荒木1973 、Lebra 1992 などを参照)。 親族指示語に関して言うと、自分の母親を指すには、身内や親しい者同士の会話では「お母さん」を使うが、ソトの者に対しては「母」ということばを使わなければならない。この様な使い分けは、父親、祖父母、兄弟、姉妹、その他近い親族にも同様に適用される。したがって人間関係の表現は、ウチ・ソトに応じて状況依存的になる。 日本人の自己意識の流動性を示す例としては、授受動詞の用法がよくあげられる。日本語では、英語のgive を「くれる」と「あげる」の二つに区別する。「くれる」は、通例(1a) のように話し手が受け手の場合に使われ、(1b) のようにソトの者が受け手となる場合は容認されない。しかし、受け手が話し手によってウチの者と見なされる場合は、(1c) のように問題はない。 (1) a. 岡田さんが(私に)お金を貸してくれた。 b. #岡田さんがその人にお金を貸してくれた。 c. 岡田さんが母にお金を貸してくれた。 この種の現象が生じるのは、ウチの者は、いわば、話し手の延長された自己と見なされるからであり、それは、まさに、自己と他者との境界線が流動的だからだと説明される。 ウチとソトの境界の流動性を示すより端的な例とされているのは、尊敬語・謙譲語の使い分けである。例えば、自分の会社の社長について同僚と語る場合は、(2a) のように尊敬語を使い、自分の行動を語る場合は、(2b) のように謙譲語を使う。しかし、会話の相手が社外の者である場合は、(2c) のように謙譲語を使わなければならない(ここでは社長の名前を田中と仮定する)。 (2) a. 社長は出席なさいます。 b. 私は出席いたします。 c. 田中は出席いたします。 これは、ソトの者との会話では話し手はウチを代表すると考えられ、話題の人物が上司であろうとも、ウチの者であるかぎりは自己の延長であると見なされるからだと説明される。 このような日本語の特性から、Wetzel (1994) は、日本語におけるダイクシスの中心はウチという集団的基点であって、印欧語におけるようなI という個の基点ではないと主張する。 4.ウチに同化しない不変の絶対的自己 前節では、日本人のもつ自己の概念は、西洋語話者の自己概念とは異なり、集団的なウチに同化し、状況に応じて変化する相対的な自己であるとする分析を概観した。3この節では、日本語の特質として欠くことのできない、情報の「証拠性」(evidentiality) に関する現象(例えば、神尾1990 参照)を記述・説明するためには、ウチに同化しない一定不変の絶対的自己を認めざるを得ず、常に流動する相対的自己とは相容れないことを指摘する。 日本語で感覚・感情などの心理状態を描写する場合、「心理述語」と呼ばれる動詞・形容詞が用いられ、心理述語の主語は、通常、話し手に限られる。したがって、心理述語の使用に際しては、日本語話者は自己と他者の間の厳密な区別を自覚しなければならない。例えば (3) の例では、心理述語「寒い」の主語は話し手であり、話し手以外の心理を描写する場合は、(3c-d) のように、「~ている・そうだ」のような間接的表現を付け加える必要がある。 (3) a. 私は寒い。 b. #母は寒い。 c. 母は寒がっている。 d. 母は寒そうだ。 心理述語の主語に関するこの制約は非常に厳密であり、もし述語が多義であれば、その文はこの制約を満たす形で理解される。例えば心理述語「悲しい」には、経験者を主語とする解釈と悲しみを引き起こす要因を主語とする解釈があるが、(4b) のように、主語が話し手以外である場合は、聞き手は自動的に後者の解釈(「母は私を悲しくさせる」)をとることになる。 (4) a. 私は悲しい。 b. 母は悲しい。 また、(5) に見られる願望を表す表現も心理述語に属する。したがって、「~たい」の主語は話し手でなければならず、第三者の願望を表現する場合は、「~たがっている」という形にしなければならない。 3より一般的な観点からの、自己という概念に関する西洋的な捉え方と日本的な捉え 方の比較検討については、Hasegawa (1999a, b) を参照。 (5) a. 私はコーヒーを飲みたい。 b. #母はコーヒーを飲みたい。 c. 母はコーヒーを飲みたがっている。 もう一つ、代表的な心理述語である「思う」について考えてみよう。 これも今までの 例文と同じく、三人称主語は排除される。 (6) a. 私は、母は病気だと思う。 b. 母は病気だと思う。 c. 母は(自分は/が)病気だと思っている。 (6a) では、「思う」の主語は話し手であり、「病気だ」の主語は話し手の母親であることが明示されている。(6b) では、「私」は現れていないが、解釈は (6a) と同じで、「思 う」の主語は話し手でなければならない。三人称主語の思考を述べるには、(6c) のように「思っている」という形にしなければならない(中右1994 のモダリティ論も参照)。 このような制約は、単に日本語の主語選択にかかわる言語的な問題ではなく、誰が誰の心理状態を直接的に知ることができるかという、言語外の一般認識にかかわる問題である。通常の会話では、話し手は自分以外の人間の心理を直接的に知ることはできない。しかし小説のような特殊設定のもとでは、著者はそこに描かれる世界の全知全能の創造主であり、その意味で、三人称主語と心理述語を併用することができる。 (7) 秋子は、母は病気だと思った。 (3)-(6) の (a) 文と (b) 文の対立から浮かび上がる自己の概念は、決して相対的なものではなく、流動性もない。ウチの代表例である母親であっても、自己と同一視した言語表現は不可能である。これらの例文は、それがいかに原始的で未熟なものであろうと、日本語が強い自己意識を前提にしていることを示すものであり、そのような言語を使用する者が西洋語に見られるのと同様の一定不変の自己概念をもたないと考えることは不可能である。すなわち、相対的自己の概念は日本語の心理述語の文法とは相容れないわけである。 5.日本語における絶対的自己の優位性 ここまでのところ、第3 節では、ウチに同化する相対的自己に関する議論を概観し、第4節ではウチに同化しない絶対的自己の存在を示した。この節では、日本語における絶対的自己の優位性を論じる。 まず第一に、絶対的自己は言語習得の早期に現れるが、相対的自己の概念獲得は、かなり後になるという事実に注目したい。 小学 小学生如何制作手抄报课件柳垭小学关于三违自查自纠报告小学英语获奖优质说课课件小学足球课教案全集小学语文新课程标准测试题 一年生でも、「アキちゃん来ると思う」といった文が、主語の指示対象ではなく、話し手の考えを表現していることは難なく理解できるが、自分の母親を発話状況によっては、「お母さん」ではなく、「母」と呼ばなければならないというようなことは、小学校教育の場などで意識的に教えられるものである。 第二に、聞き手がウチの者かソトの者かによる使い分けは、必ずしも日本語のすべての方言に共通して言えることではないという点も考慮すべきであろう。Shibatani(1990:123-126) や井上 (1999) などで述べられているように、現在の共通語の基礎である東京方言は古代日本語に始まり、京都の貴族階級によって作り上げられた丁寧語・敬語体系を多く取り入れたものであり、関西を除けば日本語としてはかなり特殊なものであると言える。日本語の多くの方言には、二重の親族指示語や厳密な丁寧語・敬語体系は見られない。一方、第4 節で見た心理述語に関する制約は日本語一般に当てはまると考えられる。 第三に、例 (2) で示されているように、ウチの会話では「社長は出席なさいます」と言い、ソトの者に対しては「田中は出席いたします」と言う使い分けは規範文法的であり、記述言語学の主要部分とは言い難いところがある。このことは、多くの会社が社内教育の一環として、二十年近くあるいはそれ以上の期間、日本語を使用してきた社員に敬語の「正しい」使い方を教え込むという事実や、日本のほとんどの書店には敬語の本が並ぶという現象から推し量ることができる。それに対し、「悲しい」や「思う」などの述語が話し手以外の主語には使えないことを改めて教える必要は全くないという事実は重要である。 第四に、「受験地獄」に代表される現代日本の競争社会で、子供達が「個」の意識を培わないと考えるには無理がある。日本では、将来の社会的成功の可能性は、大部分が非常に早い時期に決まるという考え方に基づき、幼稚園の段階から競争が始まり、子供達は大学に入るまで様々な試験を受け続けることになる。試験結果は順位づけられ、いかに家族が裕福であろうと、いかにランクの高い学校に通っていようと、この順位を動かすことはできない。多くの学習塾では、他者と競争することより、己に克つことに重点を置く。この事実もまた、日本人が自己の意識をもたないとか、自己の意識が他者をも含むという考えとは矛盾する。 最後に、絶対的自己はウチの延長線上に位置づけられるものではなく、しかも、相対的自己より基本的な概念であることを示す言語現象がある。第3節で見たように、補助動詞「くれる」は、ある行為によって話し手が恩恵を受け、それをありがたく思っていることを表すのに使われるが、恩恵の受け手が「母」のようにウチの者と考えられる場合にも使うことができる。それは、三人称であってもウチの者であるかぎりは相対的自己(の延長線上)に含まれるからだと説明される。しかし一方で、「思う」のような心理述語は一人称主語としか生じないということを第4 節で見た。ここで注目すべきは、次例のように、これら二種類の述語が共起する場合である。 (8) a. 私は、岡田さんが助けてくれると思う。 b. #その人は、岡田さんが助けてくれると思う。 c. 母は、岡田さんが助けてくれると思う。 主題の「は」は格関係を明示しないので、(8) では、原理的には主格にも対格にも対応してよいことになる。実際 (8a) では、「私」は「思う」の主語と「助けてくれる」の目的語の両方を兼ねると解釈されるのが普通である。それに対し (8b) では、「その人」は「思う」の主語にはなれず、また、ウチの者でもないため、恩恵の受け手とも解釈されない。よって不自然な文となる。問題は (8c) である。この文は (8b) とは異なり容認可能だが、「母」は恩恵の受け手としてだけ解釈され、「思う」の主語とは解されない。つまり、「母」はウチの者とはされても、心理述語の主語にはなれないということである。このことは、絶対的自己とウチの者との間に紛れもない境界があることを示すものであ る。さらに、それが心理表現という人間にとってより基本的な領域に見られることから、絶対的自己は相対的自己より基本的な概念であると言える。 6.普遍的概念としての自己とその二面性 これまで見てきたように、日本語の心理述語においては、ウチの者が自己と一体化することも、また、自己がウチに同化することもあり得ない。ここにウチから区別される自己の独自性があり、そういう自己を絶対的自己と呼んできた。絶対的自己というのは、簡単に言えば、当該言語表現を用いる言語主体としての自己にほかならない。つまり、発話時(より厳密には、中右1994 のいう「瞬間的現在時」としての発話時)における話し手のことである。この意味で自己という概念を用いるなら、それはあらゆる言語に適用可能な普遍的概念であると考えられる。 このように普遍的に適用できる意味で自己を定義したとしても、依然として、日本語における自己は、英語などの西洋語における自己のように不変の自己とは言えないという議論が起こる。それは、第3 節でも述べた、人称代名詞にかかわる問題である。つまり、英語のような言語では話し手を指すのに一人称代名詞のI が専用のことばとして存在し、そのために自己の独自性が際立つのに対して、日本語にはそれに直接対応するようなことばがなく、状況に応じて多くの表現を使い分けなければならないため、自己は状況依存的にならざるを得ないというわけである。しかし、このような議論は話し手という概念を一面的にしか捉えていないために起こる片寄った―それも西洋語のほうに片寄った―見方である。 以下、本稿では、話し手という普遍的概念としての自己には、「公的自己」と「私的自己」という二つの面があり、英語のような言語は公的自己を中心に体系づけられているのに対し、日本語は私的自己を中心に体系づけられていることを論じる。 まず公的自己というのは、聞き手と対峙する「伝達の主体」としての話し手の側面であり、私的自己とは、聞き手の存在を想定しない「思考の主体」としての話し手の側面である。公的自己・私的自己は、「公的表現・私的表現」という異なるレベルの言語表現行為の主体である。公的表現とは、言語の伝達的機能に対応する言語表現のレベルで、一方、私的表現とは、伝達を目的としない、言語の思考表現機能に対応する言語表現のレベルである。公的表現行為と私的表現行為の根本的な違いは、前者は聞き手の存在を前提とするが、後者は前提としないという点にある。言語表現のなかには聞き手の存在を必ず前提とするものがある。そういう表現の典型例として、日本語には、①「よ」や「ね」など一定の終助詞、②「止まれ」などの命令表現、③「おい」などの呼びかけ表現、④「はい・いいえ」などの応答表現、⑤「です・ます」など丁寧体の助動詞、⑥「(だ)そうだ」などの伝聞表現などがある。これら聞き手志向の表現は、定義上、公的表現としてしか用いられない。聞き手志向表現を含む句や文もまた、聞き手への志向性をもつことになり、公的表現として機能する。一方、聞き手志向表現を含まない句や文は、話し手が他者への伝達を意図して用いないかぎりは私的表現であり、一定の思いを表現したものにすぎない。 公的表現は話し手の伝達態度にかかわるものであるのに対し、私的表現は話し手の心的状態に対応する。心的状態は、思考作用を表現する思考動詞にアスペクト標識の「ている」をつけて表される。「思う」を始めとする思考動詞は「~と」という引用部をとり、その部分は思考内容を表す。思考内容のみを表す言語表現のレベルは私的表現でなければならないので、思考動詞は、その引用部に私的表現しかとることができないという制約を受ける。例えば、(9)-(10) を比べてみよう(以下、私的表現を< >で、公的表現を[ ]で表す)。 (9) a. 春男は、<雨にちがいない>と思っている。 b. 春男は、<雨だろう>と思っている。 (10) a. *春男は、[雨だよ]と思っている。 b. *春男は、[雨です]と思っている。 (9) では下線部の表現が確信・推量という心的状態を表すので、引用部には私的表現がきており、したがって文法的である。それに対し (10) では、下線部の聞き手志向表現が引用部全体を公的表現にしているため、非文法的となる。 一方、「言う」を始めとする発話動詞は思考動詞とは異なり、その引用部に私的表現も公的表現もとることができる。例えば (11) では、公的表現としての発話がそのまま引用されていると考えられる。 (11) a. 春男は夏子に[雨だよ]と言った。 b. 春男は夏子に[雨です]と言った。 (11) の引用部は、春男の夏子に対する伝達態度とともに、雨だという春男の思いも伝えているので、次のように、春男の発言を私的表現のレベルで報告することも可能である。 (12) 春男は夏子に<雨だ>と言った。 英文法でいう話法の区別から言えば、(11) が直接話法で、(12) が間接話法にあたる。このことから一般に、直接話法とは公的表現の引用であり、間接話法とは私的表現の引用であると言える。4これについてはまた後ほど触れる。 7.私的自己中心の日本語・公的自己中心の英語 ここで私的自己・公的自己に話を戻すと、日本語では、私的自己を表すことばと公的自己を表すことばが別々に存在する。私的自己は、「自分」という語で表される。一方、公的自己を指し示すことばは多様で、「ぼく・わたし」などのいわゆる代名詞類を始めとして、「お父さん」などの親族名称や「先生」などの職業名も用いられる。どの語を用いるかは、発話場面での対聞き手関係により決まる(鈴木1973 参照)。このことが、まさに、集団モデルでいう自己の状況依存性という考え方につながるのだが、これは話し手の公的自己としての面しか考慮しない議論であると言えよう。話し手には私的自己というもう一つの面があり、日本語ではそれを「自分」という一定不変の概念で表すということが、日本語の本質を考えるうえで極めて重要な点である。 「自分」が私的自己を表す私的表現で、「ぼく・わたし」などが公的自己を表す公的表現であるというのは、次の例に見られる容認可能性の違いから言えると思われる。4 この仮説の日英語への適用に関する詳しい議論は、Hirose (1995) を参照。 (13) 自分は天才だという意識 (14) #{ぼく/わたし}は天才だという意識 (13) はそれ自体で自己完結的な表現であり、「自分」は当該意識の主体、つまり私的自己を指す。それに対し (14) は、適切な文脈がないと奇妙に感じられる表現である。これはどうしてかというと、「ぼく・わたし」は伝達の主体としての公的自己を表す公的表現であり、したがって意識の内的な(私的な)描写には現れないからだと考えられる。(14) が容認されるのは、次に示すように、話し手が意識した内容を他者に伝えるという伝達的な状況で用いられる場合のみである。 (15) {ぼく/わたし}が、{ぼく/わたし}は天才だという意識をもったのは、ちょうどその時でした。 この文で二番目の「ぼく・わたし」による記述が可能なのは、問題となる意識を他者に伝えようとする伝達主体がその意識の外側に存在するため、その伝達主体としての公的自己に「ぼく・わたし」が結びつくからである。ところが (14) のようにしかるべき文脈が与えられていない場合は、「ぼく・わたし」が結びつくべき公的自己が想定できないので、奇妙に感じられるわけである。一方 (13) が容認されるのは、「自分」が表す私的自己が当該意識内に想定でき、その私的自己が意識内容を意識していると自己完結的に解釈することができるからである。このように (13) と (14) の対立例は、「自分」は私的自己を表し、「ぼく・わたし」などは公的自己を表すという捉え方を裏付けるものである。 さらに関連して、次のような文における「ぼく」の解釈が二通りにあいまいである点についても述べておきたい。 (16) 秋男は、ぼくは泳げないと言っている。 一つは「ぼく」が秋男を指す解釈で、この場合は、英語の直接話法に相当する。もう一つは「ぼく」が伝達者、つまり文全体の話し手を指す解釈で、この場合は間接話法である。第6 節で見た、私的表現・公的表現に基づく話法の分析では、この解釈上の違いは、引用部全体が公的表現なのか、それとも引用部の一部である「ぼく」だけが公的表現なのかの違いによる。したがって、(16) の引用部には次のような二通りの表示を与えることができる。 (17) a. 秋男は、[ぼくは泳げない]と言っている。 b. 秋男は、<[ぼく]は泳げない>と言っている。 (17a) では引用部全体が公的表現であり、その主体は秋男であるから、公的自己を表す「ぼく」は秋男に結びつけられる。それに対し、引用部が私的表現である (17b)では、秋男は私的表現の主体だから、公的自己の「ぼく」は秋男には結びつけられず、その結果、伝達者に結びつけられることになる。 例 (16) とは対照的に、思考動詞が用いられている次の文では、「ぼく」はあいまいではなく、伝達者を指す解釈だけが可能である。 (18) 秋男は、ぼくは泳げないと信じている。 第6 節で述べたように、思考動詞は発話動詞と異なり、引用部に私的表現しかとることができないので、(18) に許される解釈は次に示すものだけしかないということになる。 (19) 秋男は、<[ぼく]は泳げない>と信じている。 ここで公的表現の「ぼく」は、(17b) の場合と同じ理由により、伝達者に結びつけられる。もし引用部を秋男自身が泳げないということを伝える内容にするなら、(20) のように、私的自己を表す「自分」を用いなければならない。 (20) 秋男は、<自分は泳げない>と信じている。 ここで「自分」は、必ず秋男を指し、それ以外の人を指す解釈はない。これは、(20)における私的表現の主体が秋男だから、私的自己を表す「自分」は秋男に結びつかなければならないからである。 言語学者によっては、(20) のような間接話法の引用部中に現れる「自分」を「話者指示詞的」(logophoric) な用法と呼び、例えば、「発話、思考、意識等を表わす動詞に従属する節の中で用いられる『自分』は、その発話、思考、意識の発話者、経験者を指す機能を持つ」(久野1978:213 )と特徴づける。このような話者指示詞的特徴は、「自分」という語が、本来、公的自己から区別される私的自己を表す特別のことばであるということから自然に導かれるものである。5 ここで注目すべきは、私的自己を表す固有のことばとして「自分」という語があることによって、日本語では、話し手が誰であってもその私的自己は「自分」で表すことができるという点である。したがって、(21) に例示するように、「自分」はいかなる人(人称)に対しても一定不変である。 5「自分」には私的自己を表す用法以外に、「冬子は自分が愛した男に裏切られた」のような例に見られる視点的用法と「冬子は自分を責めた」のような例に見られる再帰的用法がある。ここでは立ち入らないが、廣瀬 (1997) で論じられているように、これらの用法は私的自己を表す用法からの意味的拡張として捉えられるものである。 (21) {ぼく/きみ/あの人}は、自分は泳げないと言った。 この事実は、ちょうど英語のI が話し手がいかなる人であっても一定不変に用いられるというのと平行的である。ただ違う点は、日本語の「自分」は私的自己を表すのに対して、英語のI は公的自己を表すということだけである。すでに見たように、日本語では公的自己は「ぼく・わたし」などを始めとして
本文档为【日本文化讲义】,请使用软件OFFICE或WPS软件打开。作品中的文字与图均可以修改和编辑, 图片更改请在作品中右键图片并更换,文字修改请直接点击文字进行修改,也可以新增和删除文档中的内容。
该文档来自用户分享,如有侵权行为请发邮件ishare@vip.sina.com联系网站客服,我们会及时删除。
[版权声明] 本站所有资料为用户分享产生,若发现您的权利被侵害,请联系客服邮件isharekefu@iask.cn,我们尽快处理。
本作品所展示的图片、画像、字体、音乐的版权可能需版权方额外授权,请谨慎使用。
网站提供的党政主题相关内容(国旗、国徽、党徽..)目的在于配合国家政策宣传,仅限个人学习分享使用,禁止用于任何广告和商用目的。
下载需要: 免费 已有0 人下载
最新资料
资料动态
专题动态
is_824513
暂无简介~
格式:doc
大小:137KB
软件:Word
页数:20
分类:
上传时间:2010-01-26
浏览量:27